「ユウツの媒体」

その日も僕らはあいかわらず冴えない顔を突き合わせていた。時々、ボソリボソリと誰かが吐き出すことばは、会話の一部というより寧ろひとり言に近かったし、それ以前に言葉というより音として、しかも限りなく単色に近い音として互いに響いていたといった方がいいようなものだった。


 僕らは一様にモラトリアムという名の一種の雰囲気のなかに沈んで、遅めの朝食のパンを口に運んだし、氷の見あたらないアイスコーヒーでとりあえずのどを湿らせたりした。それは本当にとりあえずの行為であって、決してモノを食べるだとか、ノミモノを飲むだとかそんなマトモナ行為にはとどきそうもないといった具合で、誰一人そこから浮上しようとする者はいなかった。


 また誰か一人、ことばを吐き出した。それが誰でも構わなかった。そのことばに応えるかのように吐き出されたのはむせ返る程の煙で、誰かが一言、言葉らしきものを吐き出す度に、テーブルの上の灰皿には無機質な何かの残骸が虚しく横たわってその数を増すばかりだった。

 僕らの間には遠慮もなければ、無遠慮もなかった。

  ただ僕らを結び付けるものは、だいぶ前から一つのテーブルに収まっているという事実と他に居場所を持たないという現実だった。その慢性的で逃れがたい惰性の前に僕らは、両目を見開き、その分口を噤むことしか出来なかったが、見開くといっても十分うつろな瞼の奥には、もてあましたように濁った眼球が正面に向けられて動かなかった。もちろん、見るという作業にも悉く惰性が浸透していたから、僕らの眼にたたえられるべき何か美しさのようなものは見あたる筈もなかった。そして、互いの視線の沈黙を破るように、時々誰かが伏し目がちに何かを見たりした。それが彼の腕の時計だったとした時、その何回目かにようやくはっきりとした言葉が僕らの鼓膜を捉えることになる。

 その一言でようやく店を後にし、僕らのながすぎる一日のながすぎる昼下がりが、とりあえずでしかない終わりを告げるのである。

  前日も。翌日も。その後にも先にも、僕らはそんな昼下がりを過ごしたが、はびこる惰性は何も昼下がりだけのものではなかった。かくして、僕らの学生生活はとんでもなくながいものに感じられたし、その半ばにして暫し立ち尽くすことも少なくなかった。しかし、僕らはそんな思いを体現するような表情やら言葉やらの一通りの表現を使い古してしまったし、過去を表現するそれや、未来を予見するそれらにさえ飽きてしまっていた。


 僕らに大学で三度目の秋が訪れた。

 
 毎日の惰性は僕らを十分ユウウツにしたから、秋だからといって特別ウツになることはなかった。あらゆることと同様に、僕らはユウウツということ自体にも慣れていたし、飽きてしまっていた。僕らのユウウツに秋もなければ、春もなかった。ユウウツ自体が限りなく希薄なものになってしまっていたのかもしれない。

 いつかの四月に発病した、早すぎる五月病の傷もすっかり癒えて、後遺症もいつのまにか消えてしまった。その後いくつもの季節病を患った僕らには、あらゆる免疫が出来ている筈だった。というより、決して望ましくないその免疫群が僕らの心を起伏のないものにしていたといった方がいいかもしれない。

 いつかの九月に台風がきた。見慣れない雲が空を少しだけ近づけた。起伏のない日常のその起伏は自分でつくるものとわかってはいた。でも、それだけで何かがせりあがり、何かが沈み込むのを感じることができた。あの頃の感性は影をひそめて、今では遠い記憶のなかに佇んでいる。そんな僕らをよそに、秋は次第に深まっていった。このままこの季節をするりと通り過ぎてもおかしくなかった。しかし、ノッペリとした僕らの心にも、この秋という言葉が静かに寄りかかり、言葉以上のものとして響いてくる、そんな日があった。少なくとも、暫く忘れていたユウウツというものを思い出させるには十分なそんな日だった。
 
 僕らが不純喫茶と呼ぶその店のなかで

 その日もマスターが何かを注ぎ

 その何かがいかにも感傷をさそうような音楽にのって運ばれ

 ゆっくりと飲み込まれ、染み込んだ。

 あるいは、煙草の煙に紛れ

 あるいは、微かなため息と混ざり合って漂った。

 そして、その日僕らも確かにその流れのなかにあった。僕らを包む空気はその日、久しぶりに僕らに密着していてやわらかかったし、誰もがそれを感じとった筈だった。しかし、それを口に出すという不粋なことをするかわりに、僕らは久しぶりにコーヒーを味わった。そして、その味の深みと広がりを共有し、誰からともなく過去を確かめる作業へと入っていった。

 僕らはすっかり変質した記憶をあたためる手間を惜しまなかった。そして、それらが一通り終わった後にも、まだ僕らには何かが残されていることを知った。
 
 僕らはもてあそぶようにため息をついた。

 通りではそのため息の数だけ、イチョウが散った。
 
 僕らは冷めない熱病におかされることを望んだ…。