『ストレスを発散する』という考え方がまず間違っているということに気付くのに長い年月を要した。

元々はストレスに対してどう思っていたか。

それは、

『ストレスはため過ぎないようにしないといけない』

ということ。

なので、友人と飲みに行ったりカラオケに行ったり、運動したり、長風呂に入ったり。

とにかく『発散』『気晴らし』という部分に重点を置いていた。

その後、何かが違う、と思い始めた。

当たり前のことだが、どれだけ『発散』『気晴らし』をしても、また月曜日はやってくる。また同じようにストレスがたまるのだ。

なぜか?

それは、ストレスの震源地から遠いところで現実逃避していただけだったからだ。その場凌ぎの快楽など長持ちしない。麻薬と同じ。切れたらまた辛い現実がやってくる。

そこで考えた当時の結論。

『ストレスは震源地でしか解消できない』

ある人は言う、ストレスから逃げるな、ぶつかって行けと。ある人は言う、そのストレスを愛せと。

頑張ってはみた。

震源地でしか解消できないというロジックに自信があったからだ。

ストレスの原因を取り除くようにしましょう、なんて医者は言う。気楽なもんだ。そんなアドバイスなら素人でもできる。

その通りだった。

苦手な人なんか愛せなかった。自分にストレスを与える環境なんか愛せるはずがなかった。

かと言ってぶつかっていく勇気もなかった。喧嘩なんて絶対にしたくないし、嫌われても平気、嫌われる勇気を持とう!なんてどんなメンタルお化けが思いついたんだ?

結局、ストレスの震源地でただ立ち尽くすのだった。

学習性無力感。

何て嫌な言葉だ。

時は流れ、新たな概念に出会った。

『ストレッサーとレセプター』

という考え方。

自分にとって新しいだけで昔からあるロジックなのだろう。

簡単に言うと、

『あなたはアラビア語で悪口を言われて傷つきますか?』

つまり、ストレスを与えるもの(ストレッサー)は万人に共通に作用する普遍的なもの、絶対的なものではなく、受け取る側(受容体:レセプター)の受け止め方次第である、というものだ。

確かにアラビア語で悪口を言われてもアラビア語を理解できない人間にはストレスを感じることはないだろう。

つまり、ストレスをストレスたらしめているのは他でもない、自分なのだという考え方。

これにはかなり納得がいった。

ついにストレスとの戦いに終止符がうてるような気がして気分が高揚したのを覚えている。


しかし。すぐに気が付いてしまった。

レセプターは自分なのだ。

ストレスをストレスと捉える判断をしているのは今の自分。結局自分が変わらなければ何も変わらない。。。医者の言う『ストレスをためないようにしましょう』と大差ないじゃないか、、、と。

こうやって試行錯誤というか堂々巡りしながらアレコレ試し、3年前の冬、マインドフルネスに出会ったのだ。

それは脳の構造そのものを変えてしまおう、というものだった。















マインドフルネス瞑想が上手くいったとき、どのような状態になるか。

まずデフォルト・モード・ネットワーク『DMN』により雑念が次々と発生するが、ラベリングして受け流すことで地道に1つ1つこれ駆逐する作業から全ては始まる。

脳の筋トレと言われるこの作業の先に、ふとした瞬間に瞼の裏側に微かな光のモヤのようなものが見えたり、曼荼羅のようなものが見えたりするようになる。

また身体と空間が一体になったような不思議な感覚にとらわれて眉間がムズムズし始める。
この『眉間がムズムズする』というのが、自分自身の経験上、マインドフルネス瞑想が上手くいっているときの典型的な状態である。

そして瞑想を終えてパッと目を開くと、静寂の中で覚醒した自分自身、そして不動心というべき落ち着き払った精神状態を自覚するに至る。脳内は一遍の曇りなくスッキリとしており、つい先程まで考えていた心配事に意識を移しても

『だからどうした。どうにでもなるさ。』

と一笑に付すことができ、逆になぜさっきまで心を掻きむしられるような感覚にとらわれていたのかが全く理解できない状態になる。
マインドフルネス瞑想は長期間取り組めば上達するのか、という疑問をお持ちの方も多いと思う。

今まで約3年の私自身のマインドフルネス瞑想体験からだけで言うのが正しいかどうかわかりませんが、いくつか言えることを列挙すると、

『しばらく続ければ30分〜1時間くらいは瞑想することができるようになる』

『しばらく続ければ何となく自分なりのコツが掴めてくるが、それ以降どんどん経験を積めば積むほど上達するかというと、そういうわけでもない。』

『やっぱり今でも上手くいったなと思う日とそうでもない日がある』

どこかの記事で読んだことがあるが、ドシロウト状態からある程度慣れてきました、という状態までが最も変化が大きいらしい。

但しこれは効果の話をしているのではなく、単に瞑想という一般人から見たら若干ハードルの高そうなものが身近なものとして生活の一部になり得たかどうか、という尺度である。