映画論はブログ初だが、一つ書いておいて無駄ではない作品に出会ったので書いておく。普通にネタバレを含む。

それはあの「ラ・ラ・ランド」を撮ったデイミアン・チャゼル監督の新作「バビロン」である。「ラ・ラ・ランド」はミュージカル映画史上の屈指の名作だと僕は思っている。その上で期待した「バビロン」だが、いい意味で期待を裏切ってくれたと言っていい。

ヒロインは破天荒な女性であり、まだ声もつかない白黒映画に抜擢される。それはパーティでの振る舞いなどによるのであるが、そのパーティは退廃的である。バビロンは混乱、神の門、不道徳など、数多い意味を持っている。差し詰めここでのバビロンは不道徳に分類されると言って良い。しかし、そこには音楽と性、肉体と踊りが繰り広げられている。ヒロインはそこに居場所を見出す。一方で主人公は映画に携わることに躍起になる。無声映画の時代、ヒロインはセリフのない映画で野生児として、一挙に人気が出てスターダムにのし上がる。他にも映画役者はおり、無声映画で人気を博している。ところが、そこにトーキーの波が押し寄せる。役者たちは、そして製作陣も右往左往する。ヒロインも新たな音声という仕事に対してなかなか目が出ない。煮詰まった彼女は援助者に連れられてパーティに出る。しかし、そこは退廃的なものではなく、社交会的な場所である。それまで低俗だとされていた映画に上流階級も関心を示す。ヒロインは自分を偽り社交界で振る舞うが、野生児としての彼女は結局耐えきれず、下品な冗談を言い、食べ物を食い散らかし、ゲロを吐く。それが彼女なのであったが、かくして彼女は干されてしまう。一方で主人公は着実にステップを駆け上がるほどではないが、歩んでいく。ところがそこにヒロインが現れ、金を返さないと殺されると告げる。ギャンブルで身を滅ぼしそうになっていたのだ。主人公はなんとか金の都合をつけようとするが、それによって社会の深部、まさにバビロンと言っていい狂気の世界に入り込んでいく。そこから何とか逃げおおせるが、ヒロインを連れて逃げるしかなくなる。途中、音楽が鳴り、人々が歌い踊る街に着く。ヒロインはそこで踊り、この旅はそこで終わりだと告げるが、主人公は結婚しようと告げ、ヒロインはそれを受ける。ところがヒロインは夜、一人自動車で待ちながら幸せそうに音楽を口づさみ、そのまま闇に消えていく。主人公は殺し屋に殺されそうになりながらなんとか一命は取り留めるが、ヒロインとは二度と会えない。彼女はその後遺体で見つかる。主人公はNYで結婚してオーディオ店をやっている。子供もいる。ロサンゼルスに旅してきた彼は久しぶりに映画館に行き涙を流す。そこにはトーキーの映画、それが絢爛に放映されていたのだった。

「ラ・ラ・ランド」でのチャゼル監督はミュージカルの華やかさ、美しさの中に、夢を追う一組の男女を登場させる。彼らは高め合っていくが、やがてすれ違いの末に破局する。それは互いの夢を追うためのどうしようもない別れであり、二人はあったかもしれない世界を夢見る。今作でも夢を追う二人が登場し、やがて破局する。だが、その破局は夢を追うという若者の物語によるものではない。それはヒロインと主人公の住む世界が異なることに由来する。ヒロインは野生児であり、無声映画でこそ輝く肉体の人である、主人公は無声映画とトーキーの映画を、裏方とはいえ容易く超えていける人間だ。であるが故に、ヒロインはバビロンの、不道徳で混乱した性質を負い、主人公は凡庸でありきたりな言語的世界を背負っている。アメリカの、ロサンゼルスの過去、無声映画の時代には、バビロンは顕在化して現れていた。そこにヒロインはチャンスを見出す。ところが時代が過ぎゆく中で、それは洗練されたものに取って代わられ、バビロンは社会の外側、地下に潜る。そこでは性と退廃と暴力、グロテスクさが混然となっている。ヒロインはそこに入らないが、もし侵入していたらこの映画は美しさを失ってしまっただろう。だがヒロインが生き残るのはそんな場所のはずである。常識人の主人公は告白するも、とうとうヒロインと同じ世界に入ることはできない。時代に置き去りにされたヒロインは死ぬほかなくなる。それではこの映画は悲劇を描いていると見ていいのだろうか。否である。主人公が家族を持ってのち、映画館に行った時、そこにはミュージカルほか、過去の実際の映画が流れる。主人公はなぜそこで泣くのだろうか。それは自分たちのやってきたことが脈々と受け継がれる映画という歴史が丸々と存在していたからである。映画終盤のイメージは映画というものが役者やスタッフの屍の上に築かれた歴史そのものであるということができるだろう。同時に、常識人たる主人公が決して交わることの叶わなかった肉体の人であるヒロインはそこに確かに存在し、二人は後続映画という子供を生み出していたのである。二人が交わることの叶うのは、フィルムの歴史性でのみなのだ。それは水に落とされた絵の具のように混じり合いながら、遙か未来に繋がっていくだろう。映画とは不道徳と道徳のかけ合わさった、決して清純ではない出生の血を受け継ぐ子供の別名に他ならない。屍を越えることでしか継続しなかった映画は、その時代時代の才能の発露、挫折の舞踏によって今なお光り輝いている。

「ラ・ラ・ランド」の美しさに比較し、本作はその汚さ、古めかしさ、鈍重さによって印象付けられている。ヒロインは肉体的な存在と書いたが、それはミュージカル的主体でもある。本作は常識人=普通の映画と破天荒の人=ミュージカル映画の愛とその挫折の物語でもある。であるが故に前作よりも人を選ぶことにはなるのだが、監督はある達成をやっと乗り越えたように思われる。映画愛に溢れたという宣伝文句があったが、それは終盤の本物の無数の映画のコラージュから来たものだろう。しかしそれは果たして映画にとどまるのだろうか。監督が目指したのは、映画の歴史の中における人類の歴史の変遷と、新時代を生きられなかった旧世代のカリカチュアにさえ見える。映画を無数に知っているから映画愛があるのではない。映画こそが人類史であるという裏面に隠されたメッセージこそが、彼の映画愛の結晶ではないだろうか。