個人的な基準では見逃せない脚本家は二人いる。

昨日「怪物」で一躍脚光を浴びた坂元裕二がその一人である。

彼の脚本は才気によって人を引っ張り上げていく。それは伏線と回収などという陳腐なものではない何かである。

もう一人が岡田惠和である。

岡田作品については以前も触れたが、彼の作品は優しさと過剰な現代性に貫かれている。

「日曜の夜ぐらいは・・・」では、その過剰な現代性がドラマの枠を超えた作品となっている。

コロナ禍における「姉ちゃんの恋人」など、時に彼の倫理性は何かを踏み越え、凡庸さよりも著しい何かへと落下してしまうこともある。

本作はそれを避けつつ脚本家の願いをある意味露骨に繰り出し、しかも成功させた稀有な例である。

ラジオによって繋がれた三人の女性が一度は楽しいことを避けるように解散しながら、宝くじに当たる(!)ことによって夢の喫茶店を経営するに至る本作は、やはり岡田の祈りによって支えられている。

本作が不思議な作品だと語っていたのは爆笑問題の太田光である。「嫌なことが全然起こらない」と彼は言っていた。

それもそのはずである。彼女たちは絶望から出発しているからだ。そして絶望に復讐し、幸福になるという話だからである。

現代にはさまざまな絶望の形があるが、彼女たちはそれをなんとか切り抜けながら生きてきた。岡田はそれでもう十分ではないかと語っているのだろう。酷いことは現代を生きるだけでもう十分に降りかかっている。それは最終回でのモノローグに託されていたはずだ。

ここには過剰な幸運が露出していると批判することは可能だ。三千万当たりました、なんて夢の中の話だ。現実的ではない。そう言えるだろう。

だが岡田作品において欲望は叶うのである。あるいは幸福は成就するのである。なぜか。それは脚本家がそう祈っているからである。

現実的でなくていい。悲惨な現実はもうずっと見てきたではないか。夢のようでもいい、それでも幸せであれ。脚本家はそう語りかける。

最後のモノローグで未来の空想さえ出してしまう脚本家は、ある意味やりすぎである。だが、そのやりすぎるところにこそ、岡田脚本の真価があるように私には思える。

エンディングソングと同じ「生まれ変わってもまた私」という言葉は、現実肯定の極致だ。それを壊れないように、優しく包み込もうとする岡田は、あまりにも倫理的すぎている。

であるが故に本作は現代をメディアとして支えようと、保護しようと、細心の注意を払っている。

誰もが苦しむ現実に、本作は答えるのではなく、支えるという祈りを、メディア人として結実させている。その姿勢はあまりにナイーブでありつつ、感動を誘う。

「日曜の夜ぐらいは・・・」と聞いた時、それが岡田作品だと聞いた時、私が思い描いたイメージを脚本家は見事に作り上げ、そして超えていった。それは坂元裕二にないものではないだろうか。才気ではない何か魂のようなものを、岡田作品には感じてしまう。