その年、私は恋をしていました。彼とはどこで知り合ったのかは覚えていません。彼が何者で、どこから来たのかも私には謎でした。ただ彼の身体から野菜の腐った臭いがして、それが妙に私の気持ちを乱していたことははっきりと覚えています。とにかく私たちは住居を兼ねた時計台に住んでいました。そこから少し歩いたところに湖があって、そこで私たちは多くの時間を過ごしました。湖の向こう岸には絶えず燃え盛る炎があって、それを二人でいつまでも眺めるのです。何が燃えていたのかはわかりません。眺めることによって、彼との親密さが増すような気はしていました。私たちは毎日、そこに通いました。夜になると、歯車のかみ合う音を聞きながらワインを飲みました。正確に時を刻むには大小様々な歯車が必要で、それらがそれぞれの役割を果たすことを厳しく求められています。私はそんな調和のとれた音に耳を傾けているだけで幸せでした。ところがある朝、時計は止まりました。歯車をかみ合わせたまま、その動きを永遠に葬り去ったのです。もちろん彼の姿はどこにもありませんでした。
その美術館は森の中にあります。途中で道は左右に分かれていますが、それは目の前の湖をぐるりと回りこむためでどちらを選んでいただいてもかまいません。ただここから少し慎重を期す必要があります。というのは、その二つの道が合流する辺りに一匹の黒猫が深い眠りについていて、もしその黒猫が何かの拍子に目を覚ますようなことになればそれまで鏡のように空の雲をくっきりと映し出していた湖面がふいに巻き起こった風にすっかり乱されてしまうからです。しかし、それをなんとかやりすごすことができれば、後はもう導かれるまま進んでいくだけとなります。たとえ森の奥へ奥へと踏み分けていかなければならないとしても、その頃にはすでに美術館の門は大きく開いているはずですから。