🔷私は何をした人でしょう?
みなさん、二宮尊徳さんはご存じですね。
さて、何て呼びましょう?
にのみや そんとくさん?
にのみや きんじろうさん?
本名は「にのみや たかのり」さんです。
さて、何をした方かと言うと、こんな雰囲気の人と、みなさん覚えていますね。
しかし!
実際に薪を背負いながら、勉強していたとの記録はありません。
何故にこの姿が定着して仕舞ったかと云うと、政府が勤勉実直を世間に広めたいが故に、二宮尊徳さんを国民の鑑に仕立てたとの事です。
じゃあ、二宮尊徳さんは怠け者だったの?なんて思ってしまいかねませんが、二宮尊徳さんは訳あって没落した二宮家を再興し、政治と農業の知識を得て、農政改革に邁進した人なのです。
🔷嘉永6年(1853年)その頃、銅山も農業も疲弊していた。
農村の復興に尽力した実践的な農政家であり、思想家でもあった二宮尊徳さんはこの「足尾銅山」にも赴き、鉱山による鉱毒の被害で疲弊していた農家の再興と繁栄のために、足尾の村々を検分して廻りました。
農業だけでは暮らして行けなくなった農家が採鉱も仕事としていたため、素人の採鉱技術では鉱山の生産性も上がらず、田畑を放棄して他へ移住してしまい、人口は激減してしまう。
そんな中、二宮尊徳さんは足尾の村々を巡り、村人と話し合い、生産的な農政改革を地道に行ってきたのです。
その詳細は二宮尊徳さんの伝記などを参照頂くとして、このブログは「道」を探求する場所なので、足尾地区を二宮尊徳さんが巡った道程について書きたいと思います。
🔷疲弊した村を立て直すために
二宮尊徳さんは日光神領の農村復興のため、日光-足尾の廻村、検分を行い村々に対して、農政指導を行いました。経路だけでも、かなりの村を検分しています。
その足取りを当時の地図(そんな古い地形図は無いので、明治40年測量のものです)を使い振り返ってみたいと思います。
今昔マップ(国土地理院地図)
①嘉永6年(1853年)8月9日 日光桜秀坊
ここから二宮尊徳さん一行4名はスタートします。
日光神領の本山、日光東照宮の門前町が賑わう場所です。
②同日
山窪
③同日
小来川村(おころかわむら)
ここで、一泊!
④8月10日
上大久保村
⑤同日
下大久保村
⑥同日
引田
ここで、一泊!
⑦8月11日
下久我村
⑧同日
上久我村
⑨同日
石裂加蘇山神社(おざくかそさんじんじゃ)
ここで、一泊!
⑩8月12日
下草久村(しもくさぎゅうむら)
⑪同日
上草久村(かみくさぎゅうむら)
⑫同日
古峰ヶ原(こぶがはら)
ここで、一泊!
⑬8月13日
古峰ヶ原を起点に白井平、⑭蕗平(ふきだいら)を検分する。
⑮同日
古峰ヶ原(こぶがはら)
もう一泊!
⑯8月14日
深山巴(じんせんともえ)昼食
赤倉の長兵衛さんと出会う。
二宮尊徳さんは深山巴とは書かず、「向ふな」と記している。
ここで謹厳実直な二宮尊徳さんは物見遊山の旅ではないことを表すため「向うな」
という意味のなさない隠語を使ったのではと言われている。
⑰同日
古峰ヶ原峠
ここを、二宮尊徳さんは足尾峠と記している。ただ、足尾峠と云うものはなく古来、
足尾へ通ずる道として便宜上、足尾峠と表記したのではないかと言われている。
⑱同日
赤沢村
足尾の町へ入って一泊
⑲8月15日
新梨子村(松原)
ここで、村人からの報告あり
「銅山の様子は「屋敷跡一円荒地なり、銅気にて作物一切実らず」」との報告を受ける。
銅気により、農民は田畑を手放し、鉱山の産出も思わしくなく、人口が激減している。
⑳同日
中居村(中才)
㉑同日
遠下村
㉒同日
原村
現在の原堆積場が残る地区です。堆積場は銅山から排出された、廃石や廃泥を保管しておく場所です。選鉱スライムもあります。この廃棄物は永久に外には出せません。原堆積場は今も稼働しています。
㉓同日
唐風呂村→赤沢村に戻って一泊
㉔8月16日
掛水村
㉕同日
間藤村
㉖同日
赤倉村
栃木県道250号の分岐地点
㉗同日
久蔵村
㉘同日
松木村
㉙同日
仁田元村
㉚同日
高原木村
㉗~㉚の村は銅山の鉱毒により、廃村となっています。
ここから二宮尊徳さんは神子内村へ向かうのですが、その経路の記録がありません。
実際、二宮尊徳さんの体力的な問題もあり、山中を通らずに田元経由で神子内へ向かうことも考えられるのですが、深沢の奥(現、県道250号)から分岐する近道のニタニタ峠を通ってショートカットしたのではとの推論が有力なようです。
(この写真はニタニタ峠を県道250号側から撮影したものです)
㉛同日
神子内村(みこうちむら)
ここで、一泊!
㉜8月17日
細尾峠
GOAL!
精力的に足尾郷を廻村、検分し、復興資金を村々に配布して、足尾の再起を願った旅がここに終わりました。行程は長く過酷なものでしょうが、これは二宮尊徳さんの復興に寄せる情熱の為せる業なのかもしれません。
この旅の3年後、二宮尊徳さんは69歳の生涯を閉じました。
この行程を辿れるなら挑戦してみたいですね。
※写真の数が少ないのはご了承下さい。これから増やして行きます。
参考
広報あしお 平成15年10月号