精神科医の斎藤環さんという方の評論文に
「キャラ化する若者たち」というのがありました。

キャラという言葉が
キャラクター(character)から出ているのは知っていましたが
その違いを考えたことがなかったので
目から鱗が落ちました。

大雑把に言ってしまえば
キャラクターには固有性があるけど
キャラには固有性がないということのようです。


わたし的な解釈で言えば。。。

榎本径はキャラクターで
鍵オタクというのがキャラってことです(笑)

影山はキャラクターで
どSというのがキャラです(笑)

もっと挙げます?(笑)

大野智はキャラクターで
キレるのはキャラ

相葉雅紀はキャラクターで
おバカはキャラ。

以下、それぞれお考えください(*^◯^*)

斎藤さんの言わんとしていることとちょっとずれますが、
なるほどと思ったところを抜粋します。

《キャラの獲得は、仮の待避所として束の間の安心を
与えてくれる。
しかしその代償も、決して小さいものではない。

代償とは何か。
まず、第一に、キャラ化は成長と成熟を阻害する。》


《だから、一度自分のキャラが確定してしまったら、
そこから「降りる」ことはほぼ不可能となるのだ。》


《周囲からネガティブなキャラ認定をされてしまったにもかかわらず
そうしたキャラを積極的に引き受け、
演じているようにみえる個人が少なくないのはそのためである。
(補足;キャラを演じることで自己のリアリティを再確認でき、
自己愛を維持できるから。。。ということのようです)

不本意なキャラを引き受けるのは辛いことだ。

しかし、そんなキャラでもひとたび失ってしまったら
大げさではなしに“この世界”に居場所はなくなる。

それは、いやなキャラをあえて引き受けるよりも
はるかに恐ろしい事態なのだ。》


嵐としてアイドルとして多くの人に認知されるには
それぞれが別なキャラを演じた方がいいというのが
戦術としてあったのだと思います。

だけど、一つのキャラに固執していたら
成長できなかったでしょう。

一度世間に認知されたキャラを変えることの困難さを
身をもって示してくれた人。
(あえて、誰とは言わないけれど(^.^))
居場所がなくなるかもしれない孤独を覚悟したのでしょうか?

キャラの変化を見て
それは、やはり固有性を持たないキャラでしかなかったことに
気づきます。

もう誰も
相葉さんがおバカとか
潤さんがヘタレとか
大野さんがキレやすいとか
思っていないでしょう。。。

嵐は、キャラでなくキャラクターとして認知されたのです。

松本潤として
二宮和也として
相葉雅紀として
櫻井翔として
大野智として


だから、彼らはより自由になった。

臨機応変に突っ込んだり、突っ込まれたり
ボケたり、うるさかったり、くどかったり
可愛かったり、オネエだったり(笑)

一度確立したキャラを壊して別なキャラになりながら
最終的には、キャラクターに還ってきた感じがするんです。

キャラではなく、キャラクターとしての
優しさや男らしさ、繊細さ聡明さが
にじみ出るようになった感じがします( ^ω^ )

一度確立したキャラを“降りて”
新たなキャラになる。。。
それすら、やっぱりキャラでしかなくて
不安定な時期も乗り越えて
グループとして成長していったのかな?

もうキャラを演じなくても
5人にはそれぞれ居場所があるよね。。。



嵐って強い。。。


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「高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選」

筑摩書房 2012