endingnotev6のブログ

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 結局その日が始まってからすぐの始発の地下鉄を目指すために、まだ明るくならぬ夜明けから降り積もった新雪の中をモサモサと、買ったばかりのブーツとコートを少しだけ濡らしながら最寄りの駅を目指した。部屋の中に染み付いたであろうタバコの煙の匂いと、それが移ったコートの香りのしみが私を一層惨めな気持ちにさせる。まだ新しいビニールに包まれていた頃のコートが懐かしい、こうやって一つ一つ汚れていく自分をいつまでも見ながら被害者ぶった悲劇のヒロインごっこを繰り返して生きていくんだな、なんて考えていたりして。片手が握っている少しだけ大きな手は、昔父親と歩いていたことを連想する、手袋越しにわかる細かい手の動きが私には妙に懐かしくて、毎回のようにこうやって歩いては涙を誘うことを彼は分かっていない。私の目線は隣に並ぶ彼の肩ほどで黙って見上げなければ顔は見えなかった、ただ青色のマフラーとダッフルのコートと時折ぶつかっては互いの存在を確かめるようなまだ夢の中にいるようでおぼろげな存在が二つ並ぶだけ。
無言に耐えられなくなることはよくあることだけど、私からは何も声をかけないままでいたかった。この美しい朝焼けを邪魔したくなかったから。
「奈々は、どこまで行く?」
「私は鳥居までかなぁ、金井さんはどこまで行く?」
「俺は19条までだから、あと少ししか一緒にいられないなぁ」
彼は無邪気に笑っていう、そうやって少しだけ桜を散らしたような色の唇とか少しくしゃっとした笑顔があまりに魅力的に見える時がある。本当に、たまにだけど。
金井さんはまだ25歳で、透き通った表情をしていて、まだ若々しいのに落ち着いていて女心を心得ている、ようは、遊びなれている人だった。いつもどことなく落ち着かない雰囲気をしながら私が喜ぶようなことばかりを射っては語りかけてくる。そういうところが嫌いだった。
「泊まっちゃったけど、お母さん怒らない?」
「うん」気にするなら最初から、何もしなければいいのに。
「もしなんか言われたらいつもどうしてるの?」
「千絵のところに泊まったって言う」もう何百回目かの質問。
「千絵ちゃんのところにはちゃんと根回しできてるの?」
「当たり前じゃん、大丈夫だよ金井さんのことは、お母さん知らないから」
「そっか」とため息を付いて、何にも変わらないように、いやそれでも少しだけ頬を緩めて私の手を解いて頭を撫でる。「いい子だなぁ」と。
どんどん陽が昇ってきて、急に首元がひやりとし始める。体の奥から温まっていたものが急に芯からツンと冷えて、指先と足先と胸元が冷たくなる。それからは会話もなく、二人で作業のように歩いて駅まで来て黙ったままホームへ降りる。始発のはずなのに既に帰るために乗る人なのか仕事のためなのか、少しだけ人がいた。彼らはスーツを着込んでいたり、カップルが仲睦まじそうに歩いていたり皆それぞれが生きていることを実感させられた。
地下鉄がなに食わぬ顔でやってくると金井さんは無言で乗り込み私に千円札を手渡した。多分、電車賃のつもり。
そのまま無言で二人、吊手に捕まって電車にゆられる。化粧をするおばさんや、前に座る眠そうな金髪の女の人、私一人がまるで若さの特権を得ているようなそんな居心地の悪い気分に襲われて、つい私は金井さんに身を寄せた。彼は少しだけ私を内側に巻き込んで支えるも、それは決して革新的な部分を触らずに腕だとかそんなところしか触らなかった。あくまでも私は、彼にとって他人で今はもう素肌を知った人ではなかった。彼には同棲している彼女がいて、もう婚約もしていて私の介入する余地はなかった、たまに彼女の愚痴を聞くことはあれど、一度も顔は愚か写真すらも見たことがなかったので、私はコートや何かについた長い髪の毛たった一本を探し続けていたのだけれどまだ、見つかってはいない。
しばらく電車にゆられて彼を一度も見なかった末に、無機質なアナウンスがその時間の終わりを告げた。金井さんは私の肩を少しだけ払って、小さい声で
「またね、楽しかった。ありがとう奈々ちゃん」といって、まるでキスでもくれてやるかといったような表情をして、本当に。
彼の薄い唇は冷たくなっていた、長いあいだ寒空に晒されて私と触れ合うまではどこでその寒さを慰めていたのだろうか。そして扉に隔てられた一人の時間を、一体彼の冷たい唇を誰が温めるのだろうか。
ブーツに染みる溶けた水が冷たい、靴下が濡れて気持ちが悪い。