ステレオタイプ・チャイナ(2006年) | エンドケイプ公式BLOG

ステレオタイプ・チャイナ(2006年)

ステレオタイプ・チャイナ


 明け方の雲は新宿の空一面を支配して優しく俺を迎えてくれる。俺は店の入ってる雑居ビルの非常階段に座りながら、時折雲の隙間から漏れる太陽の光をナイフに反射させて遊ぶ。角度を変える度にナイフの表面は、海中でサーチライトに照らし出されるクラゲのように白く鮮明な光を放つ。俺はその輝きが好きだ。


命運

 遼寧省の冬は寒い。俺が二十六年住んだ故郷の冬はマイナスになる。それに比べたら東京の冬など糞みたいなもんだ。
 五年前にやって来た俺たちの組織はこの国、日本で小銭を稼ぐ。
 稼いだ金は本国へ送金する。俺のママは来年その金でマンションを買う。ママは「お前は私の誇りだよ」と言う。そう言われることが俺の誇りでもある。
 新宿歌舞伎町
 本国から連れて来た女たちをエステで働かせる。エステという名の売春宿、日本人から精液と金を搾り取る。その搾りカスを俺は管理している。女たちからは兄さんと呼ばれる。「兄さん、あたしにもっと客つけて」「兄さん、たまには食事に連れていって」「ねぇ兄さん、ガールフレンドはいるのかい?」悪い気はしない。でも兄さんだなんて便宜上の呼び名に過ぎない。俺は俺、組織の下っ端に変わりはない。


ウットウシイ


 俺が最初に覚えた日本語であり、一番好きな日本語だ。
「兄さん、一度故郷に帰って骨休みしたほうがいいよ」
 マオは露出の高いキャミソールから豊満な胸の谷間を見せながら俺に助言する。乾燥地帯に棲むトカゲのようなザラついた肌は、陽のあたらない個室で毎日知らない日本人に胸を触らせるこの環境のせいだ。
「帰ったところで何もすることないさ」と、俺。
「働きすぎだよ」と、マオ。
「お前に言われたくないよ」
 マオは週七日休むことなく店に出てくる。国で組織から負わされた多額の借金を返すために一円でも多く稼がないといけない。何人何十人何百人もの日本人の性器を触り続けて射精へと導いているのに借金は減らない。
 蟻地獄。
 組織の隠語だ。本国から来た女は、この国に来るために保証金、偽造パスポート、大久保での居住費、どんどん金を払うことになる。組織は決して完済させない。金を払い終えそうな女には中国人ホストをあてがい惚れさせて再び金をつかわせる。蟻地獄とはよく言ったものだ、無限ループ。「俺らの商売は同胞を踏み台にして生き残ってゆくんだ、よく覚えておけ」って組織の兄貴が言っていた。確かに兄貴の言うとおりだ。
「兄さん、あたしはいつまでこうして働くんだろう」
 マオは目の下のクマをこすりながら呟く。
「こんな生活もうじき終わるさ」と、俺は嘘を吐く。
「嘘つかないで」と、マオは言い当てる。
「俺たちは同胞だろ? なんで嘘つくのさ」
 同情。そんな言葉とっくに遠い場所へと置いてきた。この糞みたいな日本で生きてゆくには、あまりに意味のない言葉だ。マオはそのうち雑巾のように使い古され組織から切られるだろう。そんな命運に対して、いくら俺が哀れみをもったところで何も変わりはしない。
「じゃあ信じるよ」と。マオ。
「オーケイ、信じていいよ」と、俺。
 命運は命運なんだ。
 それに
 他人を気にかける余裕なんてある訳がない。


喧騒

 歌舞伎町の朝は「ウットウシイ」。
 日本人ホストが我がもの顔で溢れかえり、朝帰りの女を口説く。実にくだらない喧騒だ。俺は機嫌が悪いと、そいつらと殴り合いをする。日本人と喧嘩して負ける気はしない。敗北する要素がない。なにしろあいつらは所詮アメリカにスポイルされた軟弱者だ。
 特別寒い朝だった、俺の右ストレートでラブホテルの壁に頭を打ち付けたホストは後頭部から血を出しながら「てめぇヤクザ出して潰してやる」と吠えた。
 ヤクザ、ヤクザ、ヤクザ、ヤクザ
 馬鹿な奴だ。ヤクザって単語で俺が引くとでも思っているのか。ヤクザが怖くてチャイニーズマフィアやってられるか。俺は鉄板入りのブーツでそいつの顔を踏みつけた。グェというカエルのような声を出して鼻と口から血を出しながらも俺の足にしがみつく。おいおい、俺の二十三万のスーツを汚すなよ。
「殺してやる」と、ホストは呻く。それは俺の台詞だ。
 殺してやろうか。
 本気でそう思った。ダウンジャケットの内ポケット、そこに潜む純銀ナイフ。出番はまだかとウズウズしている。俺の意思ひとつでナイフはスポットライトを浴び、この劇の主役をはれる。
「お前、生きてこの街から出さないからな」
 ホストは崩壊した顔面をさらに歪ませながら、叫ぶ。
ウットウシイ
 ナイフでわざわざこいつの顔を切り刻むこともない。執拗にしがみつくホストを上から殴りつけて身体を離してから三十八回そいつの顔を上から蹴り続けた。初めは抵抗していたホストも途中から芯を抜いた人形のようにグニャリとしたまま冷たい路面の上で動かなくなった。いい気味だ。いいかよく覚えておけ、お前の着ているそのシルクのシャツもジャケットもライターも中国製なんだよ。我が国に依存しなきゃ生きてゆけない小日本のくせに、くだらない見栄はるなって!
 ピクリとも動かないホストを凝視していたら俺は可笑しくなって笑い出してしまった。こんなに笑ったの久しぶりだ。声を出して腹を抱えて笑った。
「ダシテミロヨ、ヤクザ、ダシテミロヨ」
 アハハアハハと笑い続けた。そのヤクザが使う拳銃、それも中国製なんだぜ。



混沌

 新聞に昨日のホストが出ていた。ホテル街で死亡した、と。あの馬鹿、死んだんだ。なんて軟弱なんだ。
「これ、すぐ近くだよ兄さん」
 マオは新聞を広げながら俺の肩を揺する。
「あぁ近いな」と、俺。
「物騒ね」と、マオ。
「あぁ物騒だ」と、俺。
 顔の骨がぐちゃぐちゃになっていたらしい。あれだけ踏み潰せば、そりゃぐちゃぐちゃになるだろう。
 昼をコマ劇場裏喫茶店のサンドウィッチで済ませてから大久保にある組織の事務所に顔を出した。取り壊しの決まっているビルの三階、ねずみ色した事務机に簡易応接セット、壁には組織のシンボル龍と蜂をモチーフにした抽象的な水彩画が掲げられている。
「お前のエステ、二ヶ月連続売り上げ減っている」
 陳が俺の頬を軽く叩きながら耳元で呟いた。
「これ以上減るとヤバイんじゃないのか? なぁ同胞、王の店も郭の店も潰された、残るはお前のエステだけが頼りなんだよ、判るよな?」
 公安による歌舞伎町浄化作戦により、仲間の風俗店はすべて摘発され女のほとんどは本国へ送還された。俺の店もいつ同じ目にあうか判らない。
「お前、能無しじゃないんだからさ、きっちり実績あげてみせろよ、そうしないとオレが兄貴に報告できないだろう」
 陳は唇がつきそうになるほど俺の耳に近づいてそう言った。
「はい」と、俺。
「はい、で済ませるなよ、頼むよ期待してるんだぜ、俺のメンツ潰さないでくれよ、もうすでに首の皮一枚だ、それと別件なんだがな…」と、陳は言うとスツールの上に置かれていた新聞を取り俺の目の前で広げた。「昨日の朝ホストが殺された、知ってるか?」
「えぇ、その記事は見ました」
「あそこ仕切ってるヤクザが、この事務所に来てな、目撃者の情報で殺った奴が中国系だって話になってるそうだ」
「そうなんですか?」
「あいつら警察より先に犯人見つけ出さないと気が済まないらしい」
「そうですか」
「お前じゃないよな?」
「俺だったら、どうなんですか?」
「ひどくご立腹でな、完全にウチの若いもんだと思ってるんだよ、まぁ疑われるのも無理ないよなぁ」
「ホストの一人や二人死んだところで問題ないでしょう」
「今はヤクザと共存してゆかなけりゃオレらだってこの街で生きてゆけないことぐらい判るだろ? なぁ?」
「俺らは俺らで歌舞伎町牛耳ってゆけばいいじゃないですか」
「いいか? 自分らのテリトリーで人が死んだら、どれだけやっかいなことになるか判らねぇのか?」
「中国系の組織が新宿に幾つあると思ってるんですか、なんでウチだけ疑われるんですか?」
「上海の奴らはヤクザと繋がり深いからな、まだ判らねぇのか、なんだかんだ理由つけてウチを潰すつもりだよ」
「戦争ですかね」
 そう俺が呟いた瞬間、陳の拳が俺の頬に当たる。俺は血液の混じった唾を床に吐きつけた。祖国の国旗のような鮮やかな朱色がリノリウムのタイルに広がってゆく。
「なぁ、いまどき武闘派のチャイニーズマフィアなんて古いんだよ、脳ミソ入れ替えろや、戦争して有益なことなんて何もないだろう」
 脳ミソ入れ替えたら俺じゃなくなる。俺は事務所を出た。平べったい故郷のパンのような雲が大久保を覆い尽くしている。雨上がりのような湿った匂いが空気に混ざっている。排気ガスと韓国キムチとチープな香水の匂いが入り混じり混沌とした湿度のスープを作り上げる。俺は店に戻る気がしなくて、そのまま漫画喫茶のソファーで眠りについた。



牡蠣

 ママの作るスープが恋しい。牡蠣と白菜のスープ。あの酸味と旨みを日本で味わうことはできない。最後に食べたのいつだっけな? 数日でもいい、国に帰ろうかな。



屈折

 反日感情? 俺の中にそんなものはない。ただ故郷を愛しているだけだ。
 頻繁にアクビが出る。少し疲れているのかもしれない。
 午前中に何度も陳から携帯に連絡が入ったが、すべて無視した。
 午後から十時間ほど店に出て、その売り上げで夜にポーカーをやり百二十万儲けた。裏カジノのオーナー三好と俺は仲がいい。定期的に女を手配してやる代わりにポーカーで勝たせてくれる。
「いい子いたら頼むな」と、別れ際ニヤケながら三好は言う。
「北の子がいいんですよね」と、俺。
「南は好きじゃない、それと上海、あれはダメだ、セックスをビジネスとしか捉えていない」
「来週、ハルピンから女が三人来ます、そのとき声かけます」
「あぁ、よろしくな」
 俺は帰りのエレベータの中で金を数えながら「ウットウシイ」と呟いた。
 どうして日本人はこんなに女が好きなんだろう。そのくせ少子化とか言っている。理解できない奴らだ。
 深夜、再び店に戻る。マオが狭いプレイルームで仮眠をとっていた。俺はポーカーで勝ったぶんをすべてマオの鞄の中に入れた。
 アクビが出る。少し苛立ちも感じる。またホストでも殺ろうか。そんな考えが浮かぶ。煙草を咥える、何度やってもライターがつかない、煙草を投げ捨てる。
 ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ ウットウシイ
 客が来る気配もない。窓の外が白く濁っている。大粒の雪だ。ネオンを反射させた雪は屈折した輝きを放ちながら歌舞伎町に降り続ける。
 すべて埋もれてしまえばいい。俺はそう思いながらフロントの丸椅子に座ったままカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
 夢をみた。

 同胞たちがデモをしている。天安門のような大規模なデモ。場所は判らない。見たことがない草原のような場所だ。建物など何もない。どうしてそんな場所でデモをしているのか判らないが、俺もそのデモに参加している。巨大な中国旗を掲げている者もいる。旗は鷲の羽ばたきのような音をさせ緩やかな弧を描きながら左右に揺れる。それがまるでスローモーションのように見える。みんな赤いタスキをかけ、拳を頭上高く上げながら叫んでいる。俺もその真似をする。でも、何を叫べばいいのか判らない。誰が先導者なのかも見当がつかない。隣にいる若い女に尋ねてみる。「おい、これはどういうデモ行進なんだ?」女はクスクスと笑う。何も答えてはくれない。ただ静かに笑うだけだ。「なに笑ってるんだ?」クスクスクスクス…「俺を笑っているのか?」クスクスクスクス…呆然とする俺は歩むのを止めてしまう。デモ行進は俺を置き去りにして先に進んでしまう。何度となく肩が当たる。まるで俺の存在など最初からないように行進は止まらない。やがてデモ隊は見えなくなる。残されたのは俺だけ。地平線がくっきり判る広大な草原。俺はそこで独り。

 そこで目が覚める。汗が全身を覆っている。時計は午前五時を示している。俺は上着を着て表へ出た。



静寂

 歌舞伎町。
 なんなんだ、この街は。
 形容しがたい街。汚れてゆくことで街としてのイデオロギーを増幅させてゆくようだ。俺の憎悪が増せば増すほど、存在感を強めてゆく不思議な街だ。
 金と女で成り立つ街。こんな糞みたいな街に多くの同胞は憧れる。馬鹿だ。素直に俺はそう思う。
 さくら通りで酔った女を口説くホストがいる。俺はわざと脇を通り肩をぶつける。
「おい、コラ、待てよ」と、ホスト。
 俺は数秒振り返らない。溜めるのだ。日本人に対する憎悪をその数秒で溜める。
「聞こえないの?」とホストは俺の肩を掴む。それと同時に俺は振り向きホストの腹にナイフを突き刺した。皮一枚を貫けばナイフはスルスルと肉を刻み内臓へ達する。その感触を確かめてからナイフを回転させる。ホストは甲高い声をあげ大きく目を見開く。女は安物のダッチワイフのように口を開けたまま硬直している。何度もナイフで内臓を掻き回してから引き抜く。違う角度で抜くから皮膚は大きく裂け白いシャツは瞬時に多量の血液で赤く染まる。ホストは受身もとらず前に倒れこむ。鈍い音がする。アスファルトの細かな溝に血が染み渡り幾本もの川を作る。
 女は声もあげずその場にしゃがみこむ。周囲にいた日本人や黒人連中が騒ぎ出す。一定の距離を保ってナイフを手にした俺を囲む。
ウットウシイ
 夢でみたデモ行進。どうして立ち止まった俺を気にかけずに誰もが前へ進んでいったんだろう。なぁ、どうしてだ。あの女はクスクスと笑い続けた。どうして俺を笑うんだ。その笑いには嘲笑が含まれていた。祖国のために俺は努力してきたんだぜ? 遼寧省で最大規模のマフィアの一員として、この小日本でヤクザ相手に対等にぶつかり合ってテリトリー広げてきたんだぜ? なんのデモか教えてくれてもいいじゃないか。なぁ、そうだろう? 同胞だろう? なんで笑ったんだ?
「別、別笑我!!」
 俺はありったけの声を出して叫んだ。
 サイレンの音が明け方の街に響き渡る。俺はそのサイレンの方へ向かう。俺が歩き出すと人の壁が瞬く間に崩れだす。目の前の靖国通りに無数のパトカーが止まった。公安なんか怖くないぞ。ヤクザなんて怖くないぞ。俺は世界を制するチャイニーズマフィアだ。パトカーのボンネットの上に飛び乗って中を覗く。車内の公安の奴らがみんな笑っているように見えた。「なに笑ってるんだ?」俺がナイフをフロントガラスに突き立てるとパトカーは急に後進して後ろのパトカーに激突した。金属音が響く。車内から続々と公安共が降りてくる。どいつもこいつも口元を歪ませている。馬鹿にしているのか? こいつらみんな俺を馬鹿にしているのか? 俺はボンネットから飛び降りると一番近くにいた公安の人間にナイフを突きつけようとした。俺の大切な純銀ナイフ。決して裏切ることはしない祖国のナイフ。

 乾いた音がする。

 鼓膜を通り越して脳で感じるような音だった。
 同時に背中が熱くなり、すぐにその熱は肺の中を満たしていった。
 グルグルと廻る世界の渦。俺はその中心にいるんだ。そう感じた。
「兄さん、一度故郷に帰って骨休みしたほうがいいよ」と、マオは言った。そうかもしれない。俺は生き急いでいるのかもしれない。判ったよ、うん、一度帰ることにするよ。
「OK、回家」
 俺は呟いた。目の前が霞む。目の前の公安、その豚野郎の顔すら見えない。あれ、俺泣いているのか? 涙の塩分が口の中に入り込む。そんな場合じゃない。泣いている暇なんてないんだ。帰らないと。家に帰らないと。きっとママも喜んでくれるだろうな。一緒にマンションの物件探そう。最上階で一番いい部屋だ。そして久しぶりにスープを作ってよ、ママ
 その時、胸を埋め尽くした熱は焼けるような痛みを含んでいることに気づいた。俺はゆっくり振り返った。公安の奴らが銃を構えて立っている。銃口からは煙が出ている。そこまでは判った。そこまでは見えた。

 そのあとは覚えていない。ただ静寂が俺を出迎えてくれた。

〈了〉