こんな素敵なお店に入った
こんな美味しいもの食べた
こんな仲間たちに囲まれ幸せな宴をしている私
こうした一場面をインスタとかFBにUPしたい時って
自分もありました。そして他人のそれを羨ましいと思う
ことも。
東京来て、収入も増えて、そういう面白い人たちとの
出会いとかもあって、最初の頃、自分も似たようなものを
UPしていた時もあるんだけど、途中からそういうことが
空しくなってきた時からUPしなくなった。
あるいは、一部を切り取って良く見せても、
全体を見ると、「嘘」なのが自分でもわかった。
絵ずらはいいけど実は不味かった料理。
集まったはいいけど、色々裏で問題のある人間関係。
遊園地でもアミューズメントでもなんでもそこに行くまで
いろいろ面倒くさかったり、暑くて死にそうだったり、
写真の裏には泥臭いリアルが地続きで。
で、そうした目で見ると、他の方の一部を切り取った
リア充アピールも、
いやぁ、言ってないだけで色々あったでしょ?
と読めるようになり、羨ましいものではなくなってきた。
伝統的な大金持ち、全世界の1割の富裕層は、
みんなが羨むようなことは空気を吸うぐらい普通だから
SNSなんかで改めてアピールしないのだという。
あへてやることは、何かの代償行為なのだろうと
思える。私自身が私自身を認められないので、
みんな認めて!と表明している場合があると思う。
恋仲、夫婦仲を自慢するときは=おそらくうまくいっていない
食べた料理をUPする時は=食べる前の写真なのでその後どうだったか不明(笑)
こんな場所に行きました=実はそんなんでもなかった。前後が最悪だった。
ひねくれた見方ですが、本当にそれが空気を吸うぐらい
普通でうまく行っているならアピールしたいと思えなく
なるよなぁというのがどうしてもあって、
みんなの羨望をエネルギーとして受け取りたいという
気持ちがあるぐらいに何か欠落しているんじゃないか
って最近は思えてしまう。
身についていない時こそ自慢したい時と。
本人も満たされている上で、UPされているものは
「自分が」ではなく、「何が」に特化していて、違いは
すぐわかる。
ところどころに「自分が」が絡むから嫌味臭くなる。
「何が」の場合、そのUPした人、見る人が同列に
一緒にそれを楽しむような形になる。
「そこにいった私」じゃなくて、「そこにあった何か」
の「何」を伝えたくなると。
なので、インスタ見て鬱になるとか、本当に人生の
無駄だと思う。それエネルギーを吸収されてるんだよと。