前回の続きです。
前回は日本人のロボット観の背景にあると私が思っているものについて簡単に説明しましたが、今回は「ターミネーター」などに見られる西洋の「ロボット」観について考察したいと思います。
西洋と言っても都合上やはりアメリカ、イギリスなどの英語圏が中心になってしまいますが、アメリカ映画の影響力を考えればとりあえず現代では基本的にそれほど大きな違いはないでしょうからここでは便宜上西洋とひとくくりにしてしまいます。
では、まず西洋の「ロボット」観とはどういうものでしょうか。「ターミネーター」を見れば一目瞭然でしょうが、西洋では「ロボット」は実に恐ろしい敵です。人工知能の発達の結果意思をもつに至った瞬間、「純粋理性」である人工知能搭載型ロボットは人間を滅ぼすことに全力を注ぐに違いないという風な考えが、西洋ではむしろ自然なのです。もっとも、「スターウォーズ」には非常に愛嬌のある「ロボット」キャラもいましたが、その「スターウォーズ」でも敵軍の大半を占めていたのは無差別殺人を行う「ロボット兵」でした。西洋では「高い知能を持つにも拘わらず感情の無い存在」というのが現実に存在するかもしれない恐ろしい存在として常に畏怖されているわけです。
この背景には言葉も心も通じない、自分の生存の為には抹殺しなければならない「敵」という概念が異民族との戦闘が今でも絶えない西洋世界では深く浸透しているという現状があります。もちろん現代のヨーロッパ人は「レイシズム」にはとても敏感ですから他の民族を「敵」だとか「悪」だとか堂々と言うような人はまずいないか、いたとしてもかなり珍しいです。ただ、そういう「敵」がどこかに存在してもおかしくないという考えはいつもあります。その「敵」は「ターミネーター」のような自立的な意思を持つロボットかもしれないし、「ゾンビ」かもしれないし、「宇宙人」あるいは「異星人」かもしれません。が、何が敵であるかは問題ではないのです。とにかくそういう絶対的な悪を体現するような存在が西洋的世界観の欠かせない要素となっているという点が重要です。カール・シュミット的な「友と敵」の二元論、あるいはユダヤ・キリスト教的な「天使と悪魔」あるいは「善と悪」の二元論などのなんでも二つにわけていく二分法的(dichotomy) 考えは、そういうはっきりとした区別をしなければ生存が危ぶまれるという西洋世界の政治的環境を反映しているように感じます。