プログラム Program
ベドルジハ・スメタナ/連作交響詩 《わが祖国》
Bedřich Smetana Má Vlast (Mein Vaterland)

1. ヴィシェフラド (高い城) Vyšehrad
https://youtu.be/45w7kZL71Qk?si=qcBTltkp76aN03_n


2. ヴルタヴァ(モルダウ) Vltava (Die Moldau)
https://youtu.be/Kl0-Pdo0vi8?si=vTQti7M_0T7OjUVK


3. シャールカ Šárka
https://youtu.be/_CPPV_3LQYE?si=qLO_fMhplIBPikVZ


4. ボヘミアの森と草原から Z českých luhů a hájů
https://youtu.be/ER8CelO9iu8?si=O7whwUwyzmRIOgHi


5. ターボル Tábor
https://youtu.be/AQHtaZLK4Ts?si=UevhjhQKh2Bd_con


6. ブラニーク Blaník
https://youtu.be/0_OxpV1jlhg?si=h66uFJXc5PNKs3ga


「我が祖国」全曲解説 -3 第2曲 「ヴルタヴァ」(モルダウ)
スメタナ / 連作交響詩「我が祖国」全曲解説 リンク集
概要 第1曲「ヴィシェフラフト」(高い城) 第3曲「シャールカ」
第4曲「ボヘミアの森と草原から」 第5曲「ターボル」 第6曲「ブラニーク」


https://wso-tokyo.jp/ma-vlast-vltava/


~この曲はモルダウ川の流れを描写している。一方の支流は冷たく、そしてもう一方のそれは温かく、それがやがてひとつになる。その流れは森や草原、楽しい祭りが行われている場所を通過する。月の光は水の精を照らし、その近くには城や館、廃墟などがある。モルダウ川はやがて聖ヨハネの急流にたどり着き、プラハにいたるまでに幅広い川となる。ヴィシェフラフトが見え、モルダウはついにエルベ川と合流する。~

※スメタナが曲を出版する際に出版社に宛てた手紙より。

二つの呼称 ~「ヴルタヴァ」と「モルダウ」~
「我が祖国」の中で、いやスメタナの作品の中で最も有名で親しまれている曲であることは言うまでもないでしょう。「モルダウ」というのは実はドイツ語で、最近ではチェコ語の「ヴルタヴァ」という表記も積極的に使われています。(どちらも「野生の水」を意味するゲルマン祖語のwilt ahwaに由来する名称と考えられています。)これはワセオケの練習の際にあるN響の先生からお聞きしたエピソードなのですが、チェコ出身の名指揮者ヴァーツラフ・ノイマンがN響でこの曲を振ったときに、練習の冒頭で団員にこんな言葉を言ったそうです。「どうかこの曲を『モルダウ』とは呼ばずに、チェコ語で『ヴルタヴァ』と呼んでほしい」と。ヴルタヴァというのはチェコ南部の森に源流を発して北へ向かい、プラハ市中を流れてエルベ河に合流する国内最大の大河です。音楽は川の水源の描写から始まり、川辺の人々の華やかな営みを描写しながら、大河となって最後はプラハにたどり着きます。プラハを描くクライマックスの部分で第1曲「ヴィシェフラフト」の門のモティーフが回帰する部分も聴きどころです。

2つの水源とモルダウの主題
曲の冒頭ではモルダウ川の2つの源流と、それらが合流し1つの川となる様子が描かれている。水源で水が跳ねる様子を描写したハープとヴァイオリンの軽やかなピッチカートの伴奏に乗って、2つの源流がそれぞれフルートの上行音型とクラリネットの下行音型で表現される。(譜例2-1、2-2)2つのモティーフはやがて重なり合い、弦楽器も加わって川の水かさが増してゆく。

譜例2-1 モルダウの源流1
譜例2-2 モルダウの源流2
ヴァイオリンが出て太陽が出たような明るさになると、オーボエとヴァイオリンが輝かしい音色で最も有名なモルダウの主題を奏します。(譜例2-3)その後の転調や展開を通して、視界が開けあたりが騒がしくなってゆく様子が描かれます。

譜例2-3 モルダウの主題
このテーマはスメタナの作曲したものではなく、チェコの有名な童謡Kočka leze holeを変形したものと考えられています。余談ですが、この曲は日本で童謡「こぎつね」として親しまれるドイツ民謡やイスラエル国歌など欧州各地の歌と類似性があり、ルーツが共通するとも言われています。

森の狩猟
≪森の狩猟と角笛≫
弦楽器が絶えず賑やかな水の流れを描いている上で、 美しいホルンの四重奏が奏でられ、森での狩猟の様子が描かれます。(譜例2-4)(ホルンは古くから狩猟で使われていた角笛から発展した楽器であるため、狩猟の描写の定番となっています。)下流へ進むと次第に狩猟の響きは遠ざかり、 少しづつ小さくなり聞こえなくなります。


譜例2-4 森の狩猟
農民の婚礼

川が森を出ると今度は田舎の農民たちの賑やかな婚礼の舞曲が聞こえてきます。(譜例2-5)これも少しづつ華やかさが増し、頂点に達すると次第に遠ざかって行きますが、やがて静けさが訪れるとファゴットだけが残り、夜になったことが示されます。


譜例2-5 農民の婚礼
月光と水の精

フルートとオーボエが密やかに水の流れの音を奏で、ハープによって夜の幻想的な空気感が演出されます。その上で弦合奏が、月光を表す静かな透き通った旋律を奏します。(譜例2-6)やがてホルンの四重奏が、夢幻的な水の精のダンスを表現します。


譜例2-6 月光
モルダウの主題の回帰、聖ヨハネの急流

冒頭のモルダウの主題が再現され、夜が明けて川は再び騒がしく流れてゆきます。弦楽器は猛烈な水しぶきを描き、金管は咆哮します。その中で木管群はモルダウの主題を寸断しながら転調し続け、断崖の下を流れる轟々とした急流が劇的に描写されます。

プラハ市

急流の最後で激しさは頂点を迎え、弦楽器の下降クレッシェンド続きますが、突然静まり返ります。その直後、急激なクレッシェンドを経て全合奏でモルダウの主題が堂々と鳴り響きます。大河はプラハ市街の中心を流れ、山場を迎えたところで第1曲「ヴィシェフラフト」の門のモティーフが回帰します。曲は再び落ち着きを取り戻し、モルダウの主題は弦楽部で上下に振幅激しい曲想となり、はるか遠くへ流れて消えて行きます。最後は2つの強力な終止和音で曲は力強く幕を閉じます。
≪プラハ市を流れるモルダウ(ヴルタヴァ)川≫
(Vn.4 森雄一朗)

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https://www.alpacablog.jp/entry/smetana-my-country


壮大で、スケールが大きい
チェコの第2の国歌ともいわれる《モルダウ》
川の流れのごとき音楽が、あなたを癒やしてくれる!

スメタナ: 連作交響詩「わが祖国」:モルダウ

(youtubeをポチって音楽を聴きながら読んでみてくださいね。”iPhoneの場合は全面表示されてしまったら2本指で内側にむけてピンチインしてください。”)

チェコの独立への思い、夢、希望がつまった、スメタナ:わが祖国、その中でも、もっとも有名で、壮大な1曲《モルダウ》の感想を中心に解説です。

【楽曲を解説】スメタナ:交響詩《わが祖国》「モルダウ」
【各曲を解説】スメタナ:交響詩《わが祖国》「モルダウ」
第1曲 ヴィシェフラト(高い城)
第2曲 モルダウ
第3曲 シャールカ
第4曲 ボヘミアの森と草原から
第5曲 ターボル
第6曲 ブラニーク
【3枚の名盤を解説】スメタナ:交響詩《わが祖国》「モルダウ」
ヴァーツラフ・ノイマン:指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ラファエル・クーベリック:指揮 バイエルン放送交響楽団
スデニェック・コシュラー:指揮 チェコナショナル交響楽団
【解説と名盤、まとめ】スメタナ:《モルダウ》【わが祖国】
【楽曲を解説】スメタナ:交響詩《わが祖国》「モルダウ」

スメタナ:わが祖国の2曲目の、モルダウは親しみやすい旋律と壮大な川のイメージが浮かぶことから、日本でも有名な1曲です。

そのモルダウ川は、チェコ国内では、最も長い川として知られています。

曲としては、モルダウ川の上流の静かな流れから始まります。

つまり、フルートとクラリネットの、ゆるやかな、かけあいから始まります。

だんだんと下流へむけて流れていくにしたがって、川幅が大きく、ゆったりとしていくイメージは、さまざまな楽器が壮大に合流していく中で、表現されているという感想を持ちます。

川の流れるドラマを、音楽がつむぎながら、最後は豪華に盛り上がっていきます。

これは、作曲者スメタナの、祖国チェコの希望を思う気持ちが、表されていると言われています。

そんな、国の風土や、作曲者スメタナのエピソードを含む、こんな解説があります。

ボヘミアは、本当の意味での、独立の喜びを長い間味わうことができず、とくにドイツの支配で苦しんでいた。
それだけに、独立をのぞむ愛国的な精神をもった文化人が続々とボヘミアから輩出した。
スメタナもその一人であり、オペラでそういう思想を打ちだしたばかりでなく、管弦楽曲でもその方向をすすめた。
その代表的なものが「わが祖国」である。(中略)
この6曲は、スメタナの命日に開幕される『プラハの春』と呼ばれる音楽祭の初日 (5月12日)に、必ず毎年チェコ・フィルで演奏されている。
出典:門馬直美 著 「管弦楽・協奏曲名曲名盤100」P58より引用
オーストリア帝国の属領であったチェコは、スメタナの生きた19世紀には、独立への思いと機運が高まっていました。

スメタナは、音楽での影響を与えるという立場で、チェコの国民運動に参加します。

そして、その思いで、作曲された、スメタナ:交響詩《わが祖国》のなかの「モルダウ」。

この曲は、現在、チェコの第2の国歌とも言われるほど、親しまれています。

そして、日本人の私たちの記憶にも残る、素晴らしい1曲でもあるという感想を持ちます。

【各曲を解説】スメタナ:交響詩《わが祖国》「モルダウ」

それでは、各曲について解説したいと思います。

この曲は第1曲から第6曲までの6曲で成り立っています。

第1曲 ヴィシェフラト(高い城)

ボヘミア国王の城であったヴィシェフラド。

このヴィシェフラトとは、「高い城」という意味です。

チェコ国内での、伝統的な「カトリック」と「フス派」というキリスト教勢力との対立の中で、被害を被って朽ち果ててしまったヴィシェフラト城。

そんなヴィシェフラト城の栄枯盛衰を、ハープの音で、象徴される吟遊詩人が語るという内容の曲です。

第2曲 モルダウ

こちらは、冒頭で解説しました。

第3曲 シャールカ

恋人の不実に怒り、男たちへの復習を誓う、女戦士シャールカは、女性のみの部隊(アマゾネス)を編成。

シャールカは自分の体を木に縛りつけます。

そして、その美しさに惹かれ部隊長のツチラドは縄を解き、シャールカを救います。

ツチラドは、美しきシャールカに求愛し、それを受け入れるかに見せるシャールカ。

しかし、仕掛けておいた「酒」をツチラドと、その部隊の男たちに飲ませ、酔わせ、また眠らせます。

そして、時を見計らって、シャールカ率いるアマゾネス部隊が、出現、ツチラド以下、部隊の男たちを皆殺しに…。

そんな場面を、迫力のある音楽で描いています。

第4曲 ボヘミアの森と草原から

スメタナの故郷ボヘミアの深い森が描かれます。

空気のおいしい緑の豊かな森の中、さわやかな風が吹き、鳥たちはさえずる。

太陽の光は、茂った木々に、さえぎられながらも、優しく照らしてくる。

そんな情景が浮かびます。

第5曲 ターボル

チェコの民衆を、良心にもとづいた信仰に導いた宗教改革者、ヤン・フス。

教会権力に敢然と立ち向かい、聖書をチェコ語に翻訳、民衆に希望の未来を示します。しかし、その後、異端として、火刑に処され、命を落とします。

その後、信者たちは、立ち上がり、フス戦争を起こします。

そんなチェコの宗教的な歴史が描かれていきます。

ズシリと重い、同じメロディが、繰り返される中で、管楽器たちが彩りを添える形で、展開する1曲。

ひるむことなく、勇気をもって、改革運動を推し進めたチェコの偉人ヤン・フスと、その後の信者たちのイメージが、音楽になっています。

第6曲 ブラニーク

フス戦争は、17年の長きに渡り展開します。

しかし、民衆が鎮圧されて終わりを迎えてしまいます。

しかし、ブラニーク山に眠る、破れし信者たちは、チェコが危機に直面した際には復活し、再び出陣し、栄光をもたらすと信じられています。

そんな、壮大なイメージを音楽に結実したもの。

ラストでは、スメタナ:交響詩《わが祖国》第1曲目のヴィシェフラト(高い城)のテーマが復活し、チェコの栄光を思わせるフィナーレを迎えます。

ノイマンとチェコフィルハーモニーの国を思う気持ちが、音楽に結実しました。

木管の温かい響き、「チェコ節」とも言える歌いまわしは、ノイマン独特のニュアンスの名盤。

チェコに旅したかったら、この名盤とともに、耳だけ拝借…。

きっと、チェコの緑豊かな、大自然がまぶたのうちに展開しますよ。

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わが祖国 (スメタナ)
ベドルジフ・スメタナの代表的な管弦楽曲で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩
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『我が祖国』(わがそこく、(チェコ語: Má Vlast)は、ベドルジフ・スメタナの代表的な管弦楽曲で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。第2曲『ヴルタヴァ』(モルダウ、バルタバ)が特に著名である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/わが祖国_(スメタナ)

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いわき芸術文化交流館アリオス開館15周年記念
パネル展示
音樂家 小林研一郎
青雲の志 今もなお

音楽家の小林研一郎さんは本市小名浜生まれ。
高校までをいわきでお過ごしになり、 その後、 指揮者とし
て世界的に活躍、 現在まで国内外の数多くのオーケストラの指揮を務めておいでです。

今回の特集はご活躍の端緒となった、 1974年の国際指揮者コンクールでの様子を中心に、83歳を迎えたマエストロが今も大切にし続けている、若き日の志、 音楽に対する考えの一端をご紹介します。

なお、 本特集はマエストロのご厚意により、 1993年に発行されたご自身の著書 『指揮者のひとりごと』 より抜粋し、 転載しております。

小林研一郎
略歴
1940年福島県いわき市生まれ。
小名浜第一小学校、 小名浜第二中学校、 磐城高等学校卒業。
音楽の道を志す中、十代の頃から抒情詩に曲をつけ歌曲を作曲するなど、 その才能を発揮。

上京し、東京藝術大学に進み作曲科および指揮科を卒業する。
藝大在学中に 「いわき市歌」の作曲公募で作品が選ばれる。 そのメロディーは市歌制定 50年が経つ現在でも、 市民に愛唱されている。

1974年、第1回プダペスト国際指揮者コンクールで鮮烈な優勝を飾ったのを皮切りに、世界的に活躍の場を拡げ、 現在も国内外の第一線で活躍を続けている。

特にハンガリーでの活躍は目覚ましく、その功績に対してハンガリー政府よりリスト記念勲章、ハンガリー文化勲章、民間人最高位となる星付中十字勲章、ならびにハンガリー文化大使の称号が授与されている。

また、国内では文化庁長官表彰、 旭日中綬章を受けている。
作曲家としても数多くの作品を書き、 1999年には日本オランダ交流400年の記念委嘱作品、 管弦楽曲 『パッサカリア』を作曲、 同作品はそれ以降も様々な機会に再演されている。

現在、日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団、 名古屋フィルハーモニー交響楽団、 群馬交響楽団桂冠指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者、 九州交響楽団名誉客演指揮者、 東京藝術大学 、東京音楽大学、 リスト音楽院名誉教授、東京都豊島区音楽監督、ロームミュージッ
クファンデーション評議員などを務める。

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◼️音楽の道を志す

震えが走り、立っていられないような感動に襲われていた。 ラジオから流れるオーケストラの演奏は、 まるで天からの声であった。

メロディが幾重にもからみ合い、うねり続けながら、 いつしか奔流となり、 光となり、 合唱が荘厳な響きをあふれさせた時には、涙があふれ息がつけなかった。
十歳の時、ベートーヴェン 『第九交響曲』との出会いである。

遠くおぼろげな記憶の中で、 しかし、この時の鳥肌の立つような感動は、 昨日のように今も鮮やかによみがえってくる。

その時僕は、 子供心ながらに決心した。 無からこんな偉大なものを作ることができる世界こそ、自分が生涯を賭ける値打ちがあるものだ。

作曲家になろうと・・・・・・。

まさにこの曲に人生を決定づけられた瞬間であり、強烈なインパクトの中に僕はたたずんでいた。

——両親の協力、 恩師からの愛、そして自身の努力。 東京藝術大学作曲科、そして指揮科を卒業し、国内で徐々に活躍の場を広げていた、若きマエストロについに運命の日が訪れる。
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◼️ 目に見えない運命の糸
1974年2月19日、 この日僕は未知の世界からの招待を受ける。そしてこの日が、 世界の音楽界に翔ける礎の日となる。
発売されたばかりの雑誌の最終ページに、ブダペストで開かれる国際指揮者コンクールの募集要項を見つけた。

コンクールのほとんど全ての年齢制限は、 29歳である。 その年齢までに高みに昇れなければこの世界では生きていけないという、鉄条網のようなものが厳然と敷かれている。

当時34歳だった僕に該当することはないという思いで読み流した。突然心臓が早鐘を打ち出したのは年齢制限 35歳を見た時だった。

しかし、 ときめきはすぐにひじてつを食う。 締切は2月15日。 すでに4日すぎている。

自分はよくよく運のない男だと思った。 雑誌が気ぬけした手からすべり落ちた。 足元で見開きページのピアニストの写真が妙にセクシーに見えた。

やるせなさに加え、 怒りが急にこみ上げて来た。 なぜ今日発売された雑誌に締切を過ぎたコンクールの募集要項を載せるのだ、と思ったら、足がひとりでに雑誌をけとばしていた。

ドアに当たった雑誌はにぶい音を立てて妙にひしゃげた形になっていた。瞬間、 ひらめいたことがあった。

”待てよ、 締切が4日前でも消印にからくりの可能性があるのではないか。 4日前に出した手紙がハンガリーに着いていないとすれば何か
策が...... "。

そして、この瞬間から運命が未知の世界との
ドラマを始めてくれる。

一締切をすぎていたコンクールの募集、 友人づてにたどりついたのは、当時のハンガリー大使 大使御夫妻の尽力により、 奇跡的にエントリーが叶う。

しかし、コンクールが求める高い内容に一時呆然とするも・・・・・・。
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◼️よみがえる少年の頃の志
その時、ふと脳裏に、 少年の頃の激しい情熱に燃えていた自分がよみがえった。 誰にも何も教えられず、無からあれだけの曲を作れた自分ではなかったか。

1ヵ月しかないのではない。 1ヵ月もあるのだ。 そう自分にいいきかせ、すべての雑用を断り、寝る間を惜しむような、 机にしがみついた生活が始まった。

しばらくしてコンクール委員会から届いた “受け入れた” という報は、さらに、自分の努力に拍車をかけた。
<中略>
矢のように時はすぎた。 何度かくじけそうになりながら、多くの人々の愛のお陰でここまで来れたという感じであった。
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◼️ いよいよ決戦の地, ブダペストへ
しかし飛行機に乗り込んだときは、 悲愴な覚悟があった。

友人たちの見送りに、窓越しにVサインを出してはみたものの、正直いって、一次予選だけでもせめて通りたいという気持ちだった。

飛行機が離陸体勢から機首を上空に向けた瞬間、えもいわれぬ感覚に襲われ、不覚にも涙を流してしまっていた。

何をセンチメンタルな! というなかれ。 限られた人生ではめったにこんな場面に遭遇しえないのだから......。

それは孤独感でも、寂寥感でもない、説明のつかない涙であった。 もしかしたらそれは、 新しい人生への恐怖だったかもしれない。
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◼️ 第一次審査
一次審査の前夜。「早く明日が来れば」 という思いと、「落ちたら日本に帰って皆に何と釈明を」 ・・・・・・ との臆した考えの交錯で5分毎に目が覚めた。

ふと気がつくと朝の光。 何条かの光の線がカーテンの間をぬって部屋にとけて来て、五線紙を作っていた。 募集要項を見つけた時のように早鐘を打つ心臓。

「落ち着かねば・・・・・・」。

僕は外に出た。 大気に身を置けば少しは柔らげるかもしれない。

外はまばゆい光。

小鳥のさえずり。

ゆるやかに風は流れ、 小川はダイヤの粒を運んでいるかのようにキラキラと輝いている。
新しい芽立ちの息吹があたりを春に染めていた。

“この広大な自然の前では、 僕の人生など、無に等しいではないか。 一次を前に何をそんなに臆しているのだ"

自分への叱咤が、 心に落ち着きを与えてくれた。

いよいよ、 4日間にわたる審査の幕が上がった。 予選には違いないけれど、むしろこの予選こそ、最大の難関であることはもちろんであった。 出番は3日目と発表されていた。
<中略>
3日目。
僕の出番である。

まず一次審査のために用意された、10曲ほどある課題曲が箱の中に入っていて、 それを取り出す。 宝くじを引くような気分である。

この中から引き当てた2曲を20分の持ち時間で指揮するのである。
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◼️ 引き当てた曲は『ベートーヴェン交響曲第1番 第2楽章』と『セヴィリアの理髪師序曲』

主催者からは引いた順で、ベートーヴェンから始めてほしいとの要望があったけれど、 僕は強引にセヴィリアからスタートした。

とにかく、 セヴィリアでオーケストラの音の感覚を知り、それからベートーヴェンに挑むつもりでいた。

セヴィリアの冒頭は、 今までの出場者に、 僕のタイプで振った者はいなかったので、手短に、 こう演奏してほしい。

こうではなく――と歌いながら、簡単にドイツ語で説明してスタートした。
<中略>
今までの出場者は時間制限20分ということなので、 かなり止めての練習だったけれど、 僕はその逆を行こう――と。

そして僕の主義はそれなのだが――
演奏を中断させずに――

“歌って!”
“もっとレガートに”
“もっと弱く!”

等の短い言葉の指示のみを与えた。 今までいやになる程止められていたオーケストラは、序の部分の中間部あたりからぐんぐん乗ってくるのがわかった。

そしてフィナーレまで、一気に激しい興奮でなだれ込むことに成功した。

曲が終わるや、オーケストラは足をならし、弓で譜面をたたいて僕を讃えてくれた。

こうなればしめたものである。 波に乗るというのは恐ろしい。このたった10分の間、まるで自分が別人のようになってしまうのだから。

ベートーヴェンもその余勢を駆って、 あの難曲が、 まるで得意中の得意であったかのような演奏をすることに成功したのである。

手ごたえのとおり、 一次審査を無事に通過。

その後も二次、三次と続く審査を渾身の指揮で突破してゆく。

最終審査
5月9日、ファイナル。 日本を出発したのは4月19日であった。 20日間がすぎ去っている。

カラヤンコンクールは9日間。

ブザンソンコンクールは5日間ですべて終了する。 ゆえにこの長さをおわかりいただけると思う。

最終審査で与えられたのは、 ハンガリーの作曲家による新曲とベートーヴェンの『田園』であった。

その『田園』。

特に注意して始めた冒頭では、 決してアクセントを入れず平坦に弾いて欲しい、 すみずみまで歌が入るように、 フェルマータではヴィブラートをほとんどしないよう、 ビオラとチェロに音色の変化を――と数多く注文したのであるが、それらがパーフェクトになるのに時間はかからなかった。

優しく、美しく、そしてデリカシーに満ちた4小節が出来上がると、 その後を止めて注文する必要は全くなかった。

冒頭に書かれている “田舎に着いた時の愉快な気分” が絶妙に表され、奏でられた。

あまりの美しさに、 『田園』とはこういう曲なのだ、そして“これが音楽なのだ”と改めて思い知らされたのであった。

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◼️ そしてついに最終審査発表

「第1位、 ケンイチロウ・コバヤシ, ジャパン」

一瞬、何も考えられない空白の時が流れた。 そして父母の顔、恩師、家族、協力してくれた多くの人たちの顔が次々に浮かんでは消えた。

自分一人で辿り着けた道ではなかった。 多くの愛の力が、この時をもたらしてくれたのだった。

初めての外国。 緊張の日々。

1ヵ月にわたった苦闘の数々。

――それが今、輝かしい喜びで結実していた。

鳥肌の立つような思いの中で第九交響曲を聞きき、 音楽家になる決心をして以来、 このような瞬間に巡り会えるとは思ってもみないことであった。

―その後の 「受賞記念コンサート」(5月15日)では聴衆の熱狂はピークに達し、 1ヵ月にわたったコンクールが終了した。

翌5月16日に日本へ凱旋。 運命の3ヵ月であった。

その後の国内外における活躍、 栄光の数々け読者の皆さんの知るとおり。

そしてマエストロは著書の最後をこう締めくくっている。

早期教育や才能教育などで、 ある種の才能を創ることは可能だろう。

しかし、教育で形成される以前に、 人の中に
宿り、 生まれながらに持ち合わせている感性が、 教育とあいまってほとばしる時、 初めて音楽を創るという行為ができるのではないか。

その感性は人を思いやる心、 感動できる心、繊細な心、そういった心が強ければ強いほど、より多くのほとばしりを見るのであろう。

そんな心を持ちたい。

そのような心で指揮の道を歩みたい。

そして、わずかでも人々を感動の世界に誘う絆となれた時、その時こそ、僕は一人の人間として、 音楽家として、生を受けた喜びを全うできる時だと思っている。