いのちの停車場
内容
東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り「まほろば診療所」で訪問診療医になる。
「命を助ける」現場で戦ってきた咲和子にとって、「命を送る」現場は戸惑う事ばかり。
老老介護、四肢麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女…現場での様々な涙や喜びを通して咲和子は在宅医療を学んでいく。
一方、家庭では、骨折から瞬く間に体調を悪化させ、自宅で死を待つだけとなった父親から「積極的安楽死」を強く望まれる…。
プロローグ
救命救急センターの片隅には、特別な白いデスクがあった。
卓上には、ホットラインと呼ばれる電話だけが置かれている。そこに入るのは救急隊からの搬送受け入れ要請だ。
そして、受話器を取って患者の病状を聞き、引き受けるかどうかを決定するのが、ホットライン担当になる。
62歳の咲和子が夜勤をするのは月に二回ほどしかない。
そのときのホットライン担当は中堅どころの医師が担うのが常だった。
医師としての知識や経験以上に、瞬発力が求められる役回りだからだ。
だがきょうは、名古屋で開かれている日本救急学会の総会でセンター長の満島が基調講演に立つハレの日に当たり、大半の医局員がボスに連なって出払っていた。
ここにいるのは、まだ学会にすら参加させてもらえない若手医師か研修医だけだ。
「静かな夜を祈りましょ」
このデスクに着くと咲和子は、冬の間中、薪ストーブを焚き続けて部屋の中がカラカラに乾いていた日本海側の実家を思い出す。
「平和‥。そうよね」
咲和子がサンドイッチの包みを開けたときだった。
安易な願いを見透かしたようにホットラインが鳴った。
「はい、城北医大」
「こちら、東京消防庁・災害救急情報センターです‥」
発信者は思いがけない本庁の部署名を名乗った。ホットラインの一報は各消防署の救急隊からもたらされるのが普通だ。
本庁が絡むということは、規模が大きい状況を意味する。
咲和子の緊張は一気にピークに達した。
「大規模交通事故で重篤患者の受け入れ要請です。東池袋4丁目、国道254号、都電荒川線の向原停車場付近で大型観光バスが都電に衝突して横転、さらに玉突き事故を引き起こし、数の負傷者が発生しました。重傷者を中心に、できるだけ多く受け入れていただきたいのですが‥」
救命救急センターのベッドは10あるが、人工呼吸器まで備え付けたフル装備のベッドは2台しかない。一般的な心電図モニター付きのベッド8台は満床だ。
「何人ですか」
2人可能です‥という言葉をのみこみ、咲和子が逆に尋ねた。
池袋駅の南側に位置する城北医大病院は、現場に最も近い位置にある3次救急指定病院だ。
事故が起きた停車場は5キロと離れていない。
「ほかにも依頼しますが、重傷者の搬送先は確保が難航しそうです。比較的軽傷の患者はすべて周囲の病院に受け入れさせます。なんとか重傷者をお願いしたいのですが‥」
相手も必死になって説得の構えを築こうとしている。
「だから重傷に限ると、何人?」
「現状では少なくとも20人。城北さんには、うち7人をお願いしたい」
思った以上の人数に、咲和子は一瞬息を止める。
だが、蹄踏している時間はない。負傷者の命が刻々と失われようとしているのだ。いま断れば、救える患者も救えなくなる‥
著者について
南 杏子
1961年徳島県生まれ。
日本女子大学卒。
出版社勤務を経て、東海大学医学部に学士編入し、卒業後、都内の大学病院老年内科などで勤務する。
2016年『サイレント・ブレス』でデビュー。
他の著書に『ステージ・ドクター菜々子が熱くなる瞬間』がある。