こんにちは、ten です。
アメブロ投稿、1799 日目です。
ほんなら、今日は、何の日?

3月5日 は、何の日で、
どんな出来事があった 日 なのか?
記念日の由来や、関連する 雑学、お花、
昔話に、妄想炸裂オタ話などを、
あわせて紹介していきますね。

それでは、今日のお花!
3月5日の、今日のお花



[花言葉  「貴い」

《 君子蘭 (くんしらん) 》]


ヒガンバナ科の観賞用常緑多年草で、

南アフリカの原産です。

春に、赤橙色の筒状の花を、下向きに

つけるものと、上向きにつけるものとが

あります。

美しい花をユリに見立てるヨーロッパでは、

スカーレット・カファー・リリーと

呼ばれています。


ほんなら、今日の記念日!


「安藤百福の日」

インスタントラーメンを発明し、

「インスタントラーメン

   の 父 」と呼ばれる

安藤百福の情熱を伝えるために

制定された、 日 です。


1910年3月5日が、安藤百福氏の

誕生日であることから。


「サンゴの日」

珊瑚の魅力を、伝えるために

制定された、日 です。


「さん(3)ご(5)」の、

語呂合わせから。


〜などなど〜


それから、今日は、

 何が、あった日?


「北条時宗 執権に」

文永5年(1268年)3月5日

北条時宗 は、18歳で、

第8代執権と、なりました。


文永5年(1268年)正月、高麗の使節が

元の国書を持って太宰府を来訪、

蒙古(元)への服属を、求める内容の

国書が鎌倉へ送られ、蒙古(元)の来襲が

いよいよという時に就任しています。


それでは、今日は「元寇」

について、久々の

妄想炸裂の、オタおたはなし!


 元寇 (げんこう)

鎌倉時代のなかば、1274年(文永11年)と

1281年(弘安4年)の、2回に渡り行われた

蒙古(もうこ) (元)の日本侵略。

文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役

(こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、

当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、

元寇の言葉は、近世以後に、定着して

いきました。


交渉の経過

13世紀中期、朝鮮半島の高麗(こうらい)を

服属させた蒙古のフビライ・ハンは、

日本に対しても朝貢させ国交を結ぼうとして、

高麗を仲介とし日本に使者を派遣した。

これは、蒙古が最大の目標とした南宋

(なんそう)攻略の一環であったと考え 

られるが、その他、1227年(安貞1年)と

1263年(弘長3年)に、日本の武士の

来寇禁止を求める高麗の使者が来日した

ことがあり、そのことなどもフビライの

日本への使者派遣の理由の一つといわれて

います。

1266年(文永3年)、蒙古使者 黒的

(こくてき)・殷弘(いんこう)、高麗使者

宋君斐(そうくんひ)・金賛(きんさん)らが

ともに巨済島(きょさいとう)まで至るが、

風濤(ふうとう)の険阻を理由に

引き揚げたのを第1回とし、

1273年趙良弼(ちょうりょうひつ)の

再度の来日に至るまで、

前後6回にわたる使者が派遣された。

1268年の、第2回には、高麗使 潘阜

(はんぷ)一行が蒙古の国書をもたらしたが、

日本はこれを侵略の先触れとして受け取り、

異国降伏の祈祷(きとう)を寺社に命ずる

一方、西国 とくに九州の防備体制を

固めるなど、国内はにわかに緊張に

包まれました。


文永の役

1274年(文永11年)10月3日、

蒙古・高麗の兵約2万8000よりなる

征日本軍は、忻都(きんと)、洪茶丘

(こうちゃきゅう)らに率いられて

合浦(がっぽ) (慶尚南道馬山(ばさん))を

出発。10月5日、対馬(つしま)に上陸。

このとき、対馬守護代の、宗助国

(そうすけくに)以下が防戦のすえ戦死し、

10月14日、壱岐(いき)が襲われ、

守護代平景隆(たいらのかげたか)以下が

戦死。対馬・壱岐2島の百姓らは、男は

あるいは殺されあるいは捕らえられ、

女は1ヶ所に集められ、数珠(じゅず)

つなぎにして舷側(げんそく)に結びつけ

られるなどの残虐な行為を受けたと、

いいます。10月20日、元軍は、博多湾

西部の今津→ 百道原(ももじばる)などに

上陸し、麁原(そはら)、鳥飼(とりかい)、

別府(べふ)、赤坂(いずれも福岡市内)

と激戦が展開されました。

日本軍は少弍経資(しょうにつねすけ)、

大友頼泰(おおともよりやす)の指揮の

もとに、経資の弟景資(かげすけ)が

前線の指揮をとり応戦したが、石火矢

(いしびや)を使う蒙古の集団戦法に

大いに苦戦しました。最終的な勝敗が

決せぬまま、同夜、蒙古軍は撤退を開始

したが、さいわいにもいわゆる

「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、

蒙古の兵船は壊滅的打撃を受けた。

未帰還者は1万3500余人といわれて

います。


防備体制の強化

日本遠征の失敗のあと、フビライは、

高麗の、再征中止の勧めにも

かかわらず、南宋への最終的攻撃を

進めるとともに、日本再征の準備を

整えていきました。

1275年(建治1年)4月、蒙古使者

杜世忠(とせいちゅう)・何文著

(かぶんちょ)が、長門(ながと)室津

(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ

送られ竜口(たつのくち)にて斬首

され、1279年(弘安2年)6月にも、

再度蒙古よりの使節一行が博多に

到着したが、今回は鎌倉に上らす

こともなく、博多において斬らせる

など、幕府は厳しい態度を示した。

同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし

中国全土の支配者となり、日本再征は

日程の問題となった。一方、日本では、

文永の役が終わると、幕府は同役の

論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて

防備体制(異国警固番役(いこくけいご

ばんやく))を強化した。博多湾沿岸の

防備は、九州内各国がそれぞれ分担して

順次番役を勤めるという制規が定められ、

金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の

指揮をとるため幕府より差し遣わされた。

また長門の警備も強化され、これには

長門、周防、安芸 (のち備後も加わる)

の、勢をもって防衛すべき旨が定め

られた。また、積極的に日本から元の

遠征基地である高麗へ征戦する

「異国征伐」も、企てられ、そのための

船舶、水主(かこ)などの、動員も、

行われたが、実現には至らなかった。

1276年(建治2年)3月よりは、

博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に、

至る20キロメートルの地帯に石築地

(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を

築くことなども始められた。これは

御家人だけでなく、所領の広さに応じて

一般荘園 公領にも賦課されたものです。


弘安の役

元の第2回の日本遠征軍は、金方慶

(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の

率いる蒙・漢・麗 合同軍4万の東路軍

と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧

南宋軍10万の江南軍とからなっていた。

1281年(弘安4年)5月3日、東路軍は

合浦を出発。対馬・壱岐を経て、

一部は長門を侵攻。主力は6月6日、

志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、

同海上および陸上の一部で交戦。

肥後の、竹崎季長(たけざきすえなが)、

伊予(いよ)の、河野通有(こうのみちあり)

らが小舟に乗り、元の、大船に切り込みを

かけ武名を挙げたのも、このときである。

このように東路軍が、九州本土への上陸

拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい、

上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島

(たかしま)へと退いた。一方江南軍は

主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に

慶元(寧波(ニンポー))を出発。

平戸島(ひらどしま)付近で東路軍と合流し、

一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日

鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、

大挙して鷹島の、敵船に猛攻を開始した。

ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、

翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅

してしまいました。主将 范文虎は、

士卒10余万を捨てて帰還し、残された

士卒らは日本軍にことごとく殺害、捕虜と

されたといいます。

元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の

帰らざる者7000余人と高麗の記録は

伝えています。


戦争というものは、いつも、

弱き者の、大きな犠牲と

ともに、成立します。

どんな時も、この大きな

犠牲を忘れずに、過ごして

いかねばならないですね。


それでは、今日の、

オタおた 話は、(おしまい)

です。


それでは、今日は、

     イソップ童話!

3月5日の、イソップ童話



『戦争の神と乱暴の女神』


 神さまたちが、みんな結婚する事を

決めて、それぞれくじ引きで相手を選び

ました。

 戦争の神は、1番おしまいに、くじを

引く事になりました。

 でもその時には、乱暴の女神しか

残っていませんでした。

 しかし戦争の神は、乱暴の女神を

見て、大好きになり、喜んで結婚

しました。

 こうして、戦争の神は乱暴の女神が

行く所には、どこへでもついて行く

様になったのです。


 町の中でも国と国の間でも、乱暴な

行いが見られるところでは、必ず戦争が

起こるものです、

             (おしまい)


 アブナイ2人ですね。


ほんなら、今日は、この辺で。


今日は、またまたの、

妄想炸裂 が起こってしまい、

ぶろぐUP、遅くなり、

申し訳ありません。


雨の1日で、花粉症の

私には、つらい季節ですが、

世界中の人々が、幸せに

なれるように、お祈りして、

今日も、やっぱり

こんにちは、さようなら、

いつも、ありがとうございます。

 🌻 🌻 🌻