こんにちは、tenです。
アメブロ投稿、427日目です。
それでは、今日は、何の日?

6月2日は、6 (ろ)2 (じ)の語呂合わせから、
下諏訪町の「路地を歩く会」が制定した
路地の日、
明智光秀の謀反で織田信長が討たれる
「本能寺の変」が勃発した、信長 忌、
日本初の探鳥会開催の日、
日米修好通商条約により、下田・箱館
(現在の函館)に加えて、神奈川(現在の横浜)
・長崎港が開港した日にもなっています。



『路地の日』
下諏訪町の「路地を歩く会」が、路地の良さを
見直そうと制定。
「路地を歩く会」の名誉会長は、故・小沢昭一。

『日本初の探鳥会開催』
昭和9年6月2日〜3日に中西悟堂が北原白秋、
金田一京助、柳田國男、荒木十畝を富士山麓の
静岡県須走村(現・小山町須走)に招いて日本で
最初の探鳥会を実施。
須走は、バードウォッチング発祥の地で、
富士山東口本宮富士浅間神社(須走浅間神社)
境内には、日本野鳥の会記念碑も立っています。

(東口本宮富士浅間神社
 (須走浅間神社))

『横浜開港記念日・長崎港記念日
  ・横浜カレー記念日』
1859年(安政6年)6月2日、日米修好通商条約に
より、下田・箱館(現在の函館)に加えて、神奈川
(現在の横浜)・長崎港が開港しました。
横浜港開港とともにカレーが日本に、入って
きたということで、横濱カレーミュージアムでは
6月1日を「横浜カレー記念日」として制定
しています。

(横浜開港祭)

『おむつの日』
王子製紙が制定。
0(お)6(む)2(つ)の語呂合わせから。

『信長 忌』
天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の
謀反で織田信長が討たれる「本能寺の変」が
勃発。


「信長本廟所」である京都・阿弥陀寺で、
織田信長・信忠など本能寺の変で討ち死にした
110余名の冥福を祈る『信長公忌』が開催され、
非公開の本堂がこの日に限り一般公開されます。
また、本能寺でも『信長公忌』が執り行われます。


また、6月の第1日曜には信長の居城・安土城の
城下(滋賀県近江八幡市)で「あづち信長まつり」が、
開催されています。


(あづち信長まつり/近江八幡市)


ほんなら、きょうは、またまた
tenのオタおたはなし!
[本能寺の変:真相諸説]
なぜ明智光秀は、織田信長を
討ったのか。

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、
戦国武将・明智光秀が主人公として描かれて
います。
光秀といえばすぐに思い浮かぶのが、 
本能寺の変」ですね。
 この事件は主君・織田信長に対し、家臣の光秀が
謀反した事件として知られていますが、動機や
真相には諸説あり真実は明らかではありません。
日本史上でも有名なこの事件には、一体どのような
説があるのでしょうか?
事件当時の信長と光秀の状況や、本能寺の変の
経緯、真相についての諸説をまたしても
オタしてしまいました。

[事件の背景:信長の勢力]

信長は尾張から徐々に勢力を伸ばしていきました。
本能寺の変が起こった当時は、どのような勢力を
持っていたのでしょうか?

全国支配が目前だった信長
天正10年(1582年)3月11日、信長は長年の宿敵
だった武田勝頼・信勝親子を自害させます。
東北地方では、伊達氏、最上氏といった大名が
信長に恭順を、示しており、関東でも後北条氏や
佐竹氏と友好関係にあったため、東国での
反 信長勢力は北陸の上杉氏のみとなりました。
西国では中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏
との争いが続いていましたが、
日本全国を支配下に置ける状況だったのです。
信長と朝廷の関係は?
信長は将軍・足利義昭の追放後に従二位・右大臣
に昇進さかましたが、天正6年(1578年)に官位を
辞して以降は官職に就かないままでした。
天正10年(1582年)に信長を太政大臣か関白か
征夷大将軍に推挙するという「三職推認」が
提案されますが、信長はこの件に返答しないまま
羽柴秀吉の出陣要請を受けて出陣し帰らぬ人と
なっています。
信長と朝廷の関係については、対立説と融和説が
存在しており、信長が朝廷をどのように扱おうと
していたかは謎のままです。

[事件の背景:光秀の立場]

事件当時、天下統一まであと一歩という状況に
あった信長。
そんな信長に、仕えていた光秀の立場は、
どのようなものだったのでしょうか?

近畿管領ともいえる立場
この当時、織田家重臣が率いる軍は西国・四国
・北陸・関東などに出払っていました。
そのため織田家の政治の中心だった近畿地方に
残っていた光秀は特殊な立場だったと考えられて
いるようです。
近畿地方に政治・軍事的基盤があった光秀は、
近江・丹波・山城に直属の家臣をもち、
細川藤孝、筒井順慶、池田恒興らの武将を従えて
いました。これは師団長格になって近畿軍の
司令官になったと考えられるもので、当時の
光秀が近畿管領ともいえる立場だったことを
示しています。
四国・長宗我部問題で面目をつぶされる
光秀は多岐に渡る仕事をしていましたが、そんな
彼が担った仕事の一つに四国・長宗我部氏との
取次役があります。長宗我部元親の正室は、
明智家重臣・斎藤利三の縁戚に、あたるため、
利三を通して元親と信長を結びつけたのです。
信長は当初、元親と友好的でした。しかし対立
していた三好氏や毛利氏の勢力が衰えると、
その背後に位置していた長宗我部氏と手を組む
必要がなくなり、態度を一変させて、元親に信長を
頼った四国の大名から奪った領地の返還を求めた
のです。元親がこれを拒否すると、信長は四国
征伐を決定します。これは取次役としての光秀の
面目を潰すものでした。

[本能寺の変の経緯]

光秀は信長に重用されながらも面目を潰される
という複雑な状況にありました。
そしてついに、本能寺の変に向けて行動を起こす
のです。

接待役を解かれ出陣した光秀
天正10年(1582年)5月14日、光秀は徳川家康の
接待役を命じられます。珍物を取り揃えて
もてなした光秀ですが、備中高松城を包囲している
秀吉軍から応援要請が届き、光秀とその与力衆が
援軍の先陣を務めることになりました。
この時、光秀の手際が悪かったために接待役を解任
されたという説がありますが、『信長公記』には
記述がなく信憑性は高くないようです。
新たな接待役には丹羽長秀らが任命され、光秀は
居城に戻って出陣の準備を始めました。
本能寺が完全包囲される!
その頃、信長は安土城から小姓衆のみをつれ、
京での定宿だった本能寺に入っていました。
上洛理由はよくわかっていませんが、6月1日には
40名の公卿や僧侶を招いて茶会を開いています。
丹波にある亀山城に移った光秀は、6月1日、
13000人の軍勢を率いて出陣。  それからほどなく
して開かれた軍議で、初めて重臣らに謀反のことを
告げます。そして6月2日未明に戦闘準備を指示し、
午前4時頃には明智勢が完全に本能寺を包囲しました。
当初家臣らは、信長の命令で家康を討つと思って
いたといいます。
「敵は本能寺にあり」という宣言は『明智軍記』
による俗説で、実際は相手をしらせずに攻撃
させようとしていたのです。
燃える御殿の奥で自害した信長
包囲後、明智勢は声を上げて御殿に鉄砲を撃ち
ました。当初は喧嘩騒ぎだと思っていた信長ですが、
様子を見に行かせた森蘭丸から光秀軍だと聞くと、
「是非に及ばず(しかたがない)」と一言口にしたと
いいます。
これは光秀の性格や能力から考えて脱出不可能と
悟ったからでした。

(なんでか、いっつも不思議?
破壊の大魔王みたいな 信長 がなんで、こないに
アッサリと、自害なんか、するねんやろ?)

信長は小姓衆とともに応戦しましたが、女房衆に
逃げるよう指示したのち、燃える御殿の奥で、
切腹しました。信長の嫡男・信忠も応戦後に
館に火を放って自刃しています。

[謀反の真相とは……]

戦国時代における最後の下克上といわれる、
本能寺の変ですが、光秀が信長を討った理由は
明らかではありません。
真相については諸説ありますが、その中から
4つの説をご紹介します。

野望説
古くからある説の1つが、天下を狙っていた光秀の
野望説です。これは変の直後から語られ、『太田
牛一雑記』でも語られています。光秀は本能寺の変
を起こす前に京都・愛宕神社で連歌会を開催して
いますが、そこでの発句「時は今 雨が下しる 五月哉」
は、謀反の意を示していたという見方もあります。
怨恨説
江戸から明治にかけて主流だったのが怨恨説です。
これは信長から横暴なだった扱いを受けていた
光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたという説で、
古典史料には遺恨を裏付ける逸話が多くみられ
ます。ただしこれらの史料は一次史料ではないため、
信憑性に乏しいとも考えられているようです。
黒幕説
光秀の謀反とされる本能寺の変ですが、実は
黒幕が、いたという説もあります。
後に天下人となった秀吉や家康と共謀していた
という説や、朝廷が光秀に信長暗殺をもちかけた
という朝廷黒幕説など、かなり多くの説が存在
します。しかし、矛盾点も多く、信憑性には
欠けるようです。
四国説
近年注目をあびているのが、2014年に岡山県の
林原美術館と共同研究する岡山県立博物館が公表
した書状を発端とする四国説です。
その書状は長宗我部元親のもので、信長の命令に
従うことを告げる手紙でした。
本能寺の変が起こったのは6月2日ですが、
この日は、丹羽長秀らが大坂から四国征伐に出陣
する予定だったともいわれています。
元親と関係の深かった光秀は、信長の四国征伐を
回避したかったのかもしれません。

[戦国最大のミステリーといわれる]

本能寺の変は、信長の遺体が見つからなかった
ことや、光秀の動機が定かでないことから、
戦国最大のミステリーともいわれています。
わずか数日だけ天下人となって歴史から消えて
いった光秀にはほとんど史料が、ないため、彼の
本心は永遠にわかりません。果たして真実は、
何なのか……、本能寺の変は今後も謎多き事件
として語り継がれていくのでしょうね。

ほんなら、きょうの、tenの
オタおたはなしは、(おしまい)
です。 おつかれさまでした。

それでは、今日はこの辺で、
謎というものは、手にとれて、
よく見えて、誰の目にも、わかる
ものより、妄想ばかりの、
ten には、とても魅力的です。
謎めくものに、ロマンを感じて
いきたいですね。
それでは、
こんにちは、チューリップさようなら、😢
いつも、ありがとうございます。
(*^▽^*)