母……由依
叔母……理佐、カメラマン
娘……夏鈴
私の家は三人家族だった。私と、母と、それから叔母の三人。
理佐さんは正確にいうと『叔母』ではなく、母の中学時代の後輩だった。ソフトテニス部だった二人は、二学年離れていたのにも関わらずペアを組んでいたらしい。
母の自室には二人の名前が刻まれるトロフィーと、お揃いのユニフォームに身を包む二人の写真がいくつも飾られていた。写真の中の二人はとても幸せそうに笑っていた。
母は理佐さんを妹のように扱っていたし、他人に彼女との関係を説明する手前、『叔母』というのが一番楽だったために私は彼女をそう呼ぶようにした。
父のことは冬空の星になったのよと、ものごころつく前から母に聞かされていた。冷たく澄んだ夜空で一等輝く北の星。道に迷ったらお父さんが見つけてくれるからねというのは、出かける前の母の口癖だった。
声も顔も覚えていない父のことは、星になったのだと聞かされればそうなのかとだけ思った。薄情な子どもだといわれたらそうなのだろう。
実際、私は薄情な娘だと思う。けれど、幼い私には見えるものがすべてでしかなかった。厳しくも優しい母と、明るくて博識な理佐さん。
その二人がいれば、その二人が私を愛してくれていれば、それで良かった。
父親がいることが普通であることを知ったのは保育園の頃。じりじりと夏の太陽が照り付ける中、園庭で唯一の日陰だった砂場で遊んでいるときのことだった。
「かりんちゃんは、どうしてお母さんがふたりもいるの?」
「お母さんじゃないよ。りさちゃんだよ」
「ふぅん。お父さんはいないの?」
その無邪気な質問は、一緒に棒倒しをしていた男の子から投げかけられたものだった。その子は同い年で、いつも登園の時間が同じだったためになんとなく一緒にいるようになった子だった。
穏やかな母の気性が影響したのか、私は幼いころからおとなしい子どもだった。同年代の子どもたちが園庭で鬼ごっこやかくれんぼをしていたとしても、私はそれに混ざろうとは思わなかった。むしろ、部屋で絵を描いたり、砂場で山や泥だんごを作ったり、仲の良い子とふざけてたりして過ごす方が好きだった。
その男の子は体が弱かったためか、私と一緒に穏やかに過ごすことを好んでいたように思う。小学校進学と同時に引っ越してしまったあの子は、元気にしているのだろうか。
「いないよ」
「どうして? ヘンなの。ぼくのおうちにはいるよ」
その時の、砂山からすくった砂がやわらかい皮膚をこする感触を私はいまでも鮮明に思い出せる。今まで気にすらしなかったその感触を、私は初めて不愉快だと感じた。不快感は連鎖し、自身を取り巻くすべてが気に障るようになる。じーわじーわと鳴く蝉も、肌を湿らす汗も、刺すような夏の陽光も。
「お星さまになったんだって」
不快感を隠そうともせず低く返した私に、男の子はそうなんだとたいして興味もなさそうに言った。男の子が砂をすくうと、すり減った砂山の頂点に立っていた棒がぱたりと倒れた。
その日の帰り道、夕日の沈む坂道を登りながら、私は母に尋ねた。
「ねえ、お母さん。お父さんがいないのって、ヘンなことなの?」
オレンジ色に染まる母の横顔を見上げると、母は一瞬だけ目を見開いてから寂しそうに微笑んだ。夏の風が母の髪を揺らす。その目は少しだけ潤んでいた。
「そうね。普通じゃないのかもしれない」
「ふぅん。でも、かりんはいないのがふつうだよ」
唇を尖らせながら言って、私は足元の小石を蹴り上げた。たんたんとコンクリートの上を跳ねて、その石ころは側溝に消えてしまう。 ふふ、と母の笑い声が上から降ってきた。
「夏鈴のお父さんはね、学校の先生だっんだよ」
思えば、それは母が初めてしてくれた父という人の話だった。
父は中学校の教諭だったそうだ。社会科の先生で、旅行好きだった彼は地理の授業の際は自分の経験を交えてその国の風土を説明していた。面白おかしく話すものだから、父の授業は生徒から人気があったらしい。
部活動の指導にも熱を入れていて、部員が望めば自主練習にも遅くまで付き合ってしまうような人。暗い道を帰すのは危ないと言って、残った部員を自宅まで送り届けることもしばしばあったようだ。
母は若くして父と結婚した。私を産んだときはまだ十八歳だったという。父は母の未来の選択肢を奪ってしまったとひどく悔やんでいたらしい。教育者として、失格だと。母は、父の教え子だった。しかし、苦悩しながらも父は母を惜しみなく愛し、これから生まれてくる私を心待ちにしてくれていたと母は言った。
父を語る母の瞳は、夕焼けを受けてきらきらと輝いていた。なんてきれいなのだろう。幼かった私は母の話の二割だって理解できていなかったが、彼女が父のことをとても好いているということだけはわかった。
「夏鈴は、お父さんがいなくて寂しい?」
ぎゅうと繋いだ手を握る力が強まる。私はぶんぶんと頭を横に振った。
「さみしくないよ。だって、お母さんとりさちゃんがいるから」
にっこりと笑った私を、母は優しく抱きしめてくれた。その温かさがうれしくてたまらなかった。
私が小学生になって三回目の夏休み。ぎらぎらと日差しの照りつける庭で、私は理佐さんと二人で洗濯物を干していた。とてもよく晴れた日で、母がはりきってシーツや毛布なんかを洗濯し始めたものだから、私と理佐さんは次から次へと運び込まれてくる洗濯物を大急ぎで庭に広げていた。時折吹く夏の風が、理佐さんの外にはねた短い髪を揺らしていた。
「夏鈴ちゃん、投げるよ!」
「ちょっと待って!」
ただ洗濯物を干すだけの作業に飽きたのだろう。縁側に積み上げられていた洗濯物の山からシーツを抜き取り、理佐さんはそれを丸めて私に向かって投げつける。シーツはぼすっと私の顔にぶつかって地面に落ちていった。慌てて拾い上げ、土を払い落としながら、もう! と怒ったしぐさを見せれば、理佐さんは大きな声で笑った。その笑い声につられて、私もシーツを抱えたまま笑い声をあげた。
理佐さんはいつも溌剌としていて、よく食べ、よく動き、よく笑う人だった。その明るい性格を存分に発揮し、国内外を飛び回る仕事をしていた理佐さんは長期的に家を空けることが多かった。
私も母もおとなしい性格のせいか彼女のいない家の中は静かで退屈だった。彼女が帰宅すると、家の中は太陽が差し込んだように明るくなる。帰宅してすぐに理佐さんはお土産を片手に仕事で出会った人々の話をしてくれた。
彼女の話は幼い私にとっては冒険譚のようで、私はそれを聞くのが大好きだった。そして、理佐さんが話をしている最中に、普段あまり大きな声を出すことのない母が声を上げて笑うのも好きだった。
ははと笑う理佐さんの体が揺れるたびに、彼女の短い髪が波打つ。それが青空と重なるようすは、まるで教科書の挿絵で見た、海に差し込む日差しのようだった。
「ねえ、りさちゃん」
「なあに」
だから、幼い私は尋ねた。
「りさちゃんは、海を見たことがある?」
すると、理佐さんは目をぱちぱちと瞬かせた。長いまつ毛で縁取られたそれが数回の瞬きのあとに細められ、理佐さんがゆっくり頷く。うん、と噛みしめるように答えた彼女はひどく悲しげに微笑んでいた。そんな理佐さんの表情に、私の胸はよくわからないざわめきを覚えた。
「あるよ。……泣きたくなるくらい、きれいだった」
「りさちゃん、悲しいの?」
重ねて尋ねたときの私は、すでにぼろぼろと涙と流していた。小さなざわめきは不安となり、初めて聞いた理佐さんの影のある声に反応してみるみるうちに膨れ上がっていく。
自分の口から発した悲しいという言葉がきっけかけになったのだろう、膨れ上がった不安は幼い私の中ですぐに決壊した。
「りさちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい」
大声で泣きわめく私を、理佐さんは慌てた様子で抱き上げてくれた。その時の私は、なぜかわからないけれど、彼女に謝らなければならない気持ちでいっぱいだった。
次々にこぼれてくる涙を理佐さんのきれいな指が優しくすくう。目の前の理佐さんは、普段はきりりと上がっている眉を下げながらも笑っていた。
「大丈夫。大丈夫だよ、夏鈴ちゃん」
大丈夫だから。理佐さんの落ち着いた低い声が心地よく私の耳に流れ込んでくる。その肩口に顔を埋めると、理佐さんの髪からは陽だまりのにおいがした。
自分を包み込む温かな体と、大好きな理佐さんのにおいのおかげで、涙は少しずつ乾いていった。しゃくりあげていた呼吸が治まる頃には、泣いていた理由さえわからなくなっていた。私が泣き止んだことに気づくと、彼女は泣き虫めと言って、いたずらっぽく笑う。
「泣き虫にはおしおきだ」
言いながらぐりぐりと頬をすり寄せてくるのに、私は両手で抵抗しながら笑い混じりの悲鳴を上げる。ぐいぐいと私が力いっぱい抵抗するものだから、バランスを崩しかけた理佐さんはなんとか体勢を立て直し、私を抱き上げたまま縁側にある洗濯物の山に倒れこんだ。湿っぽいシーツにくるまれながら、彼女はこつんと私の額に自分の額をぶつける。
「夏鈴ちゃんは、笑っているのが一番かわいーよ」
そう言ってニッと唇を持ち上げる理佐さんに、私もにっこりと笑い返す。
「りさちゃんも、笑ってるのが一番かわいいよ!」
「もう! カワイイやつめ!」
ぎゅうっと力強く抱きしめてくるのを、私は全身で彼女の体にしがみついて抱きしめ返した。理佐さんのにおいを肺いっぱいに吸い込んで、幸せと愛情を噛みしめる。
そんな私の目に、素足のまま立ち尽くす母の姿が映る。母はぽかんと口を開けたままこちらを見ていた。
私の様子に気づいたのか、理佐さんが私を抱えたまま起き上がり、母に向き合う。母とぐしゃぐしゃになった洗濯物を見比べて、理佐さんは怒られたらゴメンネと私に囁いた。
しかし、母からの小言はいつまでたっても飛んでこない。どうしたものかと私と理佐さんは一緒に首を傾げた。
「どうしたの、由依」
「えっと、にぎやかだったから来たんだけど……」
母は目を数回泳がせて、口元を隠しながら両目をぎゅっと閉じる。
「二人が、あまりも……かわいくて」
小さく絞り出すように言う母に、理佐さんの肩がふるふると震えた。私を抱いたまま勢いよく立ち上がると、彼女は私ごと母を抱きしめる。
「夏鈴ちゃんも!由依も!めちゃくちゃかわいい!大好き!」
理佐さんの大きな声が庭いっぱいに響く。今度は、私と母が目を合わせて大きな声で笑った。
母と理佐さんがただの同居人でないことに気づいたのは、中学三年生の冬だった。
その日は父の命日で、私たちはしんしんと降り積もる雪の中、理佐さんの運転する車で父の墓へと向かっていた。花束を抱えながら流れる景色を見る母は、その肌の白さと口元にかかる紅い花びらが相まってひどくきれいだった。
受験勉強に追われていた私は、英単語カードをめくりながらそんな母の横顔を盗み見ていた。
父の墓は町はずれの集合墓地にあった。山の斜面を整備して作られたそこの、一番高い場所にあるこぢんまりとした墓が父のものだった。ざくりざくりと雪を踏みながら斜面を登ると、雪をかぶったそれが小さいけれど確かな存在感で迎えてくれる。
「ご無沙汰しております、先生」
墓石に向かって理佐さんが頭を下げるのも、いつものことだった。彼女も母と同様、父の教え子だった。理佐さんが今の仕事に就いているのは、どうやら父の影響らしい。家族の職業について調べる授業で、理佐さんに今の仕事に就いた理由を尋ねたとき、先生が語った世界の広さを実際に確かめたくてこの仕事を目指したんだと照れ臭そうに教えてくれた。
母の白い手が墓石に積もった雪を払い落す。それに倣って雪を落としていると、理佐さんが手袋を貸してくれた。お礼を言うと、あまり冷やさないようにと釘を刺してくる。
「受験生をこんな日に連れてくるなって、先生に怒られそうだな」
「ふふ、確かにね。でも、夏鈴がお留守番していたら、きっとこの人は寂しがると思うの」
「あっはは、言えてる」
先生、寂しがりだもんなあ。持ってきた手拭いで墓石を拭きながら理佐さんが笑う。それにつられるように母も微笑んだ。二人の白い息が墓石にふわりと当たって、それに当たった雪が溶けていく。
夏に供えた花を抜き取り、新しい花を生けながら私はそれを眺めていた。
父は母が二十歳の時に亡くなった。初雪の降った夜、スリップした車に追突されて道路脇の崖に車ごと転落したらしい。即死だった。残された母はひどく憔悴し、食事を摂ることすらできなかったという。
そんな母を支えながら、一歳だった私の世話をしてくれたのが理佐さんだった。当時、十八歳だった理佐さんが高校卒業後すぐに就職したのも、きっと私と母のためなのだろう。それからずっと、理佐さんは私たちの傍にいてくれている。
なぜ、彼女はそこまでしてくれるのだろうか。帰りの車内で助手席に座っていた私は、運転する理佐さんの横顔を見ながらぼんやりと考えていた。
受験生の夜は長い。日中に勉強するべきなのはわかっているが、集中力が上がるのはなぜか夜中になってからだ。しかし、その日は車内での疑問がずっと頭の中でわだかまっているせいで、日付が変わったにも関わらず私はまったく集中できないでいた。
気分転換にココアでも飲もう。立ち上がって台所に向かうと、居間の電気がまだ着いていることに気づく。
母か理佐さんがまだ起きているのだろうか。後者だったらいい。そうしたら、少しだけ話し相手になってもらおう。昼間の疑問を直接聞いてみるのもいいかもしれない。
きっと彼女は、あの太陽のような笑顔で答えてくれるのだろうから。淡い期待を抱きつつ覗き込んだ居間で、私が見たのは母にキスする理佐さんの姿だった。
「由依……」
熱のこもった理佐さんの声に体が硬直する。見つめ合う二人の、濡れた瞳のうつくしさに眩暈がした。
震える足でなんとか物音を立てずに自室に逃げ帰り、私はそのまま布団に潜り込む。やわらかな掛布団にくるまりながら目を閉じて、しかし瞼の裏に浮かぶあの光景にまた目を開く。
手足がいやに冷たい。
母は抵抗していなかった。つまり、二人は。胸がどきどきと脈打つ。不思議と不快感はなかった。くちづけし合う二人はとてもしあわせそうだったから。祝福するべきだ。
でも、いつから。ずっとそうなのだったら、私にはいつ話してくれるつもりなのだろう。
私は知らないふりをするべきなのだろうか。
ぐるぐると考えているうちに、枕もとの時計が朝を告げた。
読んでくださりありがとうございます。
有難いことに、反抗の続きを読みたいという方が多くいて、とても嬉しいです!
いつか必ず出しますので気長に待っていて欲しいなと思います(*^^*)