なんで、こんなことになったんだろう。真っ白だった頭の中は、目の前にある揺れる瞳に引っ張られるように鮮明になっていく。倒れてしまいぶつけた背中の痛みよりもずっと、触れている唇が柔らかくて。



「ん、」


小さく声を漏らした瞬間、覆いかぶさったまま硬直していたこばが弾けるように体を離した。頭の横についた両手に閉じ込められているせいで、視界いっぱいに見えるこばに、言葉を無くしてしまう。顔が熱くなっていくのがわかる。


「っ、理佐、ごめ ……わざとじゃなくて」


そんなことわかってる。わかってるよ。これは事故で、アクシデントで。わかっているけれど突然の出来事に何も言葉が出てこない。

 ファーストキスだった。いもしない恋人と、いつか訪れるであろう甘い瞬間をどれほど夢にみたことか。それがまさか、こんな形で終えることになろうとは。


「……りさ?」


唖然としたままの私を心配したのか、こばは不安そうに様子を伺っている。


「こば……」


名前を呼んだ声は思った以上に掠れていた。見下ろしてくる瞳は不安に揺らいでいる。何か、言葉を、なんでもいい、とにかくこの状況を打破できる何かを。

その瞬間だった。ガラリ。熱かった体を一瞬にして冷やす音。間違いなく、たった一つしかないこのレッスン室のドアが、何ものかに開けられた音だ。ああ。どうしてこんなにタイミングが悪いの。


「どう、二人とも捗って ……、る…… ?」


ぎぎぎ、と音がするほどぎこちない動きでドアのほうを見やると、そこには片頬を引き攣らせた美波と、ニヤニヤと面白がっているふーちゃんが立ちすくんでいた。


どこからどうみてもこの状況は、こばが私を押し倒しているようにしか見えないでしょうね。ええ。


かちんこちんに固まった美波は、しばしの沈黙の後、ぴしゃり、無言でドアを閉めた。はっと我に返って二人揃って大声を上げたのが ――そう、もう一週間も前のこと。 







「嘘はよくないよ、理佐。ほんとーにゆいぽんと何もなかったの?」

「だから、何もないっていってるでしょ!」

あの一件を目撃されてから、未だにふーちゃんの尋問は続いていた。こんな風に二人きりになったときは特に。


勘の鋭い彼女は、あれからギクシャクしてしまった私たちの間に何が起きたのか、もうほとんど感付いているようだった。さすがの私も、この一週間を過ごして、こばとの微妙な空気感に耐えきれなくなってきた頃で。ふーちゃんに相談すれば、きっとこの問題を解決する最善の方法を用意してくれるだろう。


だけれど、口に出して言うのは気が引けた。だって言えるわけないじゃない。ハプニングでこばにファーストキスを奪われ、意識しすぎてどんな顔して接したらいいかわからなくなった、なんて。

あの柔らかい唇が。至近距離で見たあの瞳が。目を瞑れば今も鮮明に思い出せて。こばの顔をみるたびに意識してしまうのだから仕方がない。胸の奥が酷くざわついて、ちりちりして。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだから。


理佐。練習中にふと、こばにそう声をかけられれば、逃げるように別の誰かの腕を掴んでムリヤリ話に引き込んだ。じとりと恨みがましい視線が、私を責めるけれどそんなの――知らない。



普段二人きりでいることはわりと多い方だったとは思う。仲は悪くはなかった。別段よくもないけれど。こばの中でも、私の中でも、二人の関係はたぶん、この付かず離れずの距離感が心地よかったのだと思う。


あの日のあの出来事のせいで、物理的に縮められてしまった距離感を掴み損ねているだけのような気もして。だけどもっと根本的な何かが崩れ落ちたような、そんなざわめきが心の中に淀んでいた。なんだか、今までのように何でもなくこばを見ることができなくなってしまった。



こばってば、気にすることないよ。私もぜんっぜん気にしてないから。



そう言えれば一番いいのだけれど。実際のところこばを目の前にしてそんな嘘を突き通せる自信がない。自分自身、困惑しているのだから。


「理佐」


頬杖をついてため息をつけば、目の前の瞳が柔らかく細められる。私はこの瞳を知っている。いつものふざけたそれではなく、諭すような色を持つそれを。


「、今の状況、よくないと思うの」

「どういう意味よ」

「ゆいぽんのことずっと避けてるでしょ?」

「別に」

「理佐、ゆいぽんのことキライになったの?」

「はぁ!?」


何でそうなるのよ。意味わかんない。私がこばをキライになるわけないじゃない。そう言いかけて、言葉をつぐんでしまった。

 ああ、そうか、ふーちゃんが言いたいのは。


「いいの、理佐。ゆいぽんにそう思われても」

「そんなこと……」

「そう思われてないって言い切れる?」


否定は、できない。こばをあんなにあからさまに避けてて、何とも思わないような子じゃないもの。わかっていたはずだったのになぁ、と内心は少し落ち込んだ。

本格的に反省した私に満足したのか、ふーちゃんはやんわり微笑んだ。


「お説教はもうおしまい。……私ね、あの日、何があったのか、本当は知ってるんだ」

「はぁっ!?」

「ゆいぽんは理佐と違って簡単に吐いたよ」


にんまり。意地の悪い笑顔を浮かべたふーちゃんに、私は思い切り額を机にぶつけた。ごつん。鈍い痛みと同時に顔に熱が集ってくるのがわかる。こば、何でそんな簡単に喋っちゃうの。ヨリにもよってふーちゃんに……。盛大にため息をつくと、ふーちゃんが声を出して笑ったから、私はふーちゃんの足を軽く蹴っ飛ばしてやった。






――理佐、ちゃんと仲直りするんだよ。




ふーちゃんの助言を胸に、ようやく謝罪を決して。レッスン室へと向かう。廊下を歩く音ですら大きく聴こえるほどだ。なんだか緊張して、胸のおくがざわざわする。


既にレッスンは終わっているけど、こばのことだから残って一人で練習しているはずだ。

レッスン室に入るとやはり、こばはまだ残っていた。集中しているからまだ私の存在には気づいていない。

 

曲が終わるとようやくこばは私に気が付いた。


「……理佐?」

「こば」


一瞬驚いたような顔をしたこばだけど、すぐにそれはむすりとしたものに変わる。


「なんか用?」


もう終わりだと言うように荷物を片付けながら、こちらには目もくれない不機嫌そうな声で威圧され、思わずごくりと生唾を飲んだ。


「……ていうか、今日は逃げないんだね」


ジロリと横目で睨まれて、ぐさり、胸に突き刺さる一言をくれたこばはやっぱり怒っているようだ。


「その、こば」

「何」

「ご……ごめん、ね」


 ね、が震えた。ああ、もう。私より年下だっていうのに。毛先をくるくると弄る指が明らかに話しかけないでオーラを出している。


「何が」

「え」

「だから、何が、『ごめんね』なの? 」


わかってるくせにそんな意地悪なこと言わなくたっていいじゃん!と思わず声を荒げそうになったのをぐっと飲み込む。わかってるよ、悪いのは私のほうなんだ。


「だ、だから、ずっと避けてたこと、とか!」

「どうせ、ふーちゃんに謝れって言われて来たんでしょ?」

「うっ」


ほら、やっぱり。そう言ってじとりと見詰めてくるその瞳に居心地が悪い。だって、そんなこと言われたって。しょうがないじゃない。言い返せずに口ごもると、はぁ、とため息が聞こえた。何よ。私だって、真剣に謝っているんだから。こばのバカ。


「……私も、悪いと思ってる」

「え?」


なんて思ってたらこばの口から謝罪の言葉が聞こえて、俯いてしまっていた顔をぱっとあげる。


「……理佐、初めてだったんでしょ?」


ふーちゃんから聞いた。続いた言葉に頭をがんと殴られたような衝撃が走る。

え、何バラしちゃってるの、ていうかなんでふーちゃん私がキスしたことなかったって知ってるわけ? て、いうか。ていうか。



 こばは、違うの――?



どくり、耳元でいやな音がした。どくどく。心臓がいやに鼓動を早める。私だけなの?こんなに動揺して、意識しちゃってたのは。こばにとっては、私とキスしたことぐらい、何でもないことだった。そういうことなの?


「でも、私だってわざとしたわけじゃないし。ていうか、元はと言えば理佐が原因でしょ」


そう、だけど。そうだけどさ。私がこばを道連れに引っ張って転んだのがいけなかったんだから。だけど――。どうしよう、なんか泣きそう。


「そんなに嫌だったっていうなら、謝る。それでもうこの話は終わり、それでいいでしょう?」


淡々と、そう言われて。私の視界はぐらぐら揺れていた。そんな簡単に片付けていい問題ではないはずだった。この気持ちを上手く片付けられなくて、それなのにただの事故だと割り切ることもできなくて。

こばにとっては何でもないことなのかもしれないけど、私とこば、キスしたんだよ? それって、そんな簡単に終わらせていい話なの?


「私……嫌だったわけじゃ、ないから」
 

「え……?」
 

「それだけは、誤解、しないで。こば、本当にごめん」


じわりと視界が涙で滲んで、ぽろりとあっけないほど簡単に涙が零れた。泣くつもりなんてなかったのに。年上としての威厳とか、プライドとか。そういうのがガラガラ音を立てて崩れ落ちてしまう気がして、居ても立ってもいられなくて逃げ出そうと……した私を、こばが強い力で二の腕を掴んで止めた。部屋のドアに体を押し付けられる。

 がたん、と鈍い音がした。背中をぶって、ドアが軋む。


「い、……たい、こば、痛いよ……!」


乱暴な手つきで体を押さえつけられて、こばを見れば思ったよりもその距離が近くて驚いた。私を逃がさないように強く腕を掴んだまま、こばはきゅっと眉根を寄せる。


「何よ……また逃げるつもりなの?」

「こ、こばがこの話は、終わりって言ったんでしょ!」

「じゃあ前言撤回する。終わらせない」

「はぁ?」

「だって、なんで理佐が泣くのよ、泣きたいのはこっちのほうだよ……! あれからずっと、避けられて……話しかけても、逃げるし……。本当、意味わかんない。嫌われたのかと思ったら、嫌じゃなかったとか、言うし」


こばの濡れた瞳は揺れていた。あの日のような、不安と困惑。そう言われて、やっとこばが本当に怒っていたわけではないということに気付いた。


「……理佐は、酷いよ。少しは私の気持ちになって考えてみてよ……」

「こば、、」


怒っている、というより寧ろ、傷付いている。そう表現したほうがきっと正しい。ねえこば。どうしてそんな、泣きそうな顔をしてるの……?


「嫌じゃないって言ったのは、理佐だから。全部理佐が悪いんだからね」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。ぐい、と顔を持ち上げられて。近づいた顔。噛み付かれるように口付けられて、頭の中がまっしろになった。


「っ!」




触れた唇を軽く噛まれたと思ったら、唇をなぞるように舐め上げられて、ぞくりと背筋が震える。全然なにが起きているのかわからなくて、ただ体を強張らせると、こばの親指が口の中に入り込んで、ぐいと強引に口を開かされた。


「ん、ん、っ……は、っ……」


開いた隙間から入り込んだ舌が逃げる舌に絡められる。舌が触れた瞬間、かぁっと顔が熱くなった。なに、これ。柔らかくて、熱くて、あまい。

背中がぞくぞくして、勝手に腰が震えた。熱い。熱いよ、こば……。


「ん、っ……ん、っ……ふ、ぅ……ぁ……!」


まるで食い尽くすかのようなキスに、すっかり骨抜きにされ、必死にこばに縋りつく。もう、息が、続かない。苦しくって、胸を押すと、ようやく口の中からちゅ、と音を立てて舌を抜かれた。

がくがく震える膝がもう立たなくなって、ずるずるとその場にへたり込む。


「は、ぁっ……」


思考はすっかりこばのせいでとろけきっていて役に立たない。涙でぼんやり滲んだ視界の中、こばがしゃがんで私と視線を合わせたのがわかった。

口の端から溢れて伝った唾液を、こばの舌が舐め取る。もう、ふにゃふにゃにとろけた頭は考えることを放棄した。視線もそらせない。


「こ、ば……」


ぐい、と肩を引っ張られて、こば腕の中にすっぽり抱きしめられると、ふわりとこばの匂いがした。


「……理佐のばか。こんなに好きなのに、どうしてわかってくれないの……」


 今にも泣き出しそうなその声は、震えていて。



そのときは、まだ。わからなかった。この胸の奥で燻る感情の、名前ですらも。