前回は、式部が順調な状況にあったにもかかわらず、日記においては、将来の不安を覚え、身を憂しと感じていたことを記しました。『無常』を読んで誘われるままに、寄り道をしてばかりで、なかなか本書に戻れなくて、すみません。

 

 式部の終生尽きることのない、憂いの意識、苦悩は何に起因するのか、という問いに答えることは、簡単ではありません。実生活上の出来事だけに求めることでは、どうも納得がゆかないのです。僕は、式部の並外れた知性にその答えを見出したく考えています。『無常』の著者は、日記において、宮仕えをしている式部が自分を異質の存在と意識していることを指摘した上で、次のように述べています。

 

  宮廷に仕えた彼女は、宮廷のテンポ、宮中人の心理、情緒のテンポと、できるだけ歩調を合わせようと努め、また傍目からも合わせていると思われている。(中略)しかしこれは歩調を合わせているまでであって、おのずからに合っているのではない。だから、歩調を合わせよう、合わせようとして、才や術でそれをやっている自分に、「疎ましの身の程」を感じたり、「身の憂さ」を感じたり、自嘲を感じたりせざるをえないのである。己れの意識的な「計り」「おもんぱかり」、さらには「謀り」に、「はかなさ」を感ずるといった次第である。

 

 著者の、式部の内面の読み取りが妥当かどうかは、分かりませんが、式部が「憂い」の原因を自分自身に求めている、言い換えれば自己批評の意識の強さから来ている、ということには同感です。紫式部は、言うまでもないことですが、決して並の知力の女性ではありません。おそらく幼い頃からの極めて豊富な読書量によって培われ、鍛えられた知性、特に批評力がずば抜けていたと思われます。その結果、何ひとつとして、自ら吟味して見なければならないような精神性をもつに至ったからではないでしょうか。『源氏物語』からもよくわかるように、作者は仏教に深い関心を示し、その教えに救いを求めているようにも感じますが、とうとう出家はしなかったようです。仏教の教えにも、心が満たされない自分を感じていたからではないか、と僕は思ってしまいます。

 

『無常』の「紫式部日記」の項は、次の文章のように締めくくられます。

 

 式部の「はかなし」の意識は、道綱母のそれとくらべて、一層普遍的、また根本的であった。実感としての「はかなし」意識も強かったが、凡そ人生そのものが、はかなきものに見えた。(中略)日記とか、エッセイでは、一面(的?)になりすぎ、主観的になりすぎて、それぞれがそれぞれの「はかなさ」をもって生きているというところまでは行けない。広い場面へ人生そのものを登場させようとするところに、『源氏物語』は生まれた。

 

 僕も全く同感です。

 

次の「宇治十帖」の項は、筆者が得意とする哲学的思索に満ちており、最近こういった文章にはあまり接していなかったので、ゆっくりですが味わい深く読みました。そういった特徴が濃い一節を引用したいところですが、理解するには補足的な説明を加えなくてはならず、それを行う能力にも欠けますので、この項の要約ともいえるような、次の分かりやすい文章を代わりに挙げておきます。

 

 『源氏』においては、人も世も、世の中も、色恋沙汰も、すべてあわれにはかなきものとして書かれている。「あはれ」という言葉が千と四十いくつ使われ、それについで「はかなし」及びその類語が多く使われているということがそれを示している。

 

「色恋沙汰」という言葉が、現代の我々には、ちょっと時代の隔たりを感じさせますが、式部の「はかなし」の意識が、『源氏物語』の世界全体を包んでいる、というのは間違いありません。平安人には自明のこととして、理解できたでしょうが、今日では、どうでしょうか。華麗な生涯を送ったかのような光源氏も例外ではないのです。『源氏物語』は、多義的で多面的な構造をした物語であり、さまざまな読み方が可能だと思います、先日は、『源氏物語』が女子教育のために書かれた、という論旨の教育学者の論文をネットで見つけました。その結論には賛成しかねますが、その論の展開にはなるほどと思わせるような説得力がありました。