藤原良経と式子内親王とは、似通った点が多々あるように僕は思う。一つには両者とも、高い身分に生まれながらも、生涯ずっと心の傷となっているような事件に遭っていることである。式子内親王については、弟、以仁王の非業の死であり、呪詛の嫌疑をかけられた事件であるが、良経の場合は、二十歳の時、二歳上の兄、良通が急死したこと、二十八歳の時、父、関白の兼実を始め九条家を襲った建久の政変である。式子内親王の方には、その事件を思いおこさせる和歌は残っていない(詠んでもいない可能性の方が高いが)、良経の方は、少なからずあるようだ。

 両者とも、隠遁生活を志向していたこと、また孤独感を強く感じていたことが窺える和歌が多い。恵まれた地位にあっても、二人は世の無常を常に意識していたようである。式子の方が二十歳年上であるが、平安末期から鎌倉初期にかけて、都が大混乱し、しかも天災、疫病などが次々と襲う情勢を共に経験し、心ある者なら無常感を強く抱くのは必然であったろう。日野山に方丈庵を構えて隠遁した、『方丈記』を著した鴨長明も同時代人だと言えば、理解も深まろう。

 良経の和歌には、当然厭世感がにじみ出ており、超俗的な生き方に憧れる傾向にあるが一方、式子内親王の方は、厭世の意識は感じられず、無常を素直に受け入れて、心の平安や美を見出すような志向が認められる。

 上で述べたことを和歌で実際に吟味していこう。しかし、ここでは、歌としての優劣は全く問題にしていないことを断っておく。

  冴ゆる夜の 真木の板屋の 独り寝に 心砕けと 霰降るなり

 この和歌は、『千載和歌集』(文治四年1188成立)、「冬」の部に収められており、良経が二十歳前に詠んだ初期の作品である。寒い冬の「独り寝」の孤独に「心砕け」という追い打ちをかけるように霰が降ると、酷い寂しさ、極度の孤独感を訴えている。この歌は俊成の名歌

 
 月冴える 氷の上に 霰降り 心砕くる 玉川の里

に影響を受けつつ、上句の状況設定を上手に換えているように思える。俊成の歌からは、冷たく輝く白色のイメージが圧倒的で印象深いが、良経の方は「独り寝に心砕け」と堪えがたい孤独が強調されている。

 今度は式子の冬を詠んだ和歌を読もう。おそらく出家(四十二歳ごろ)後間もなく作られたとされるA百首(『前斎院御百首』)に収められている。


 冬くれば 谷の小川の 音絶えて 峰の嵐ぞ 窓をとひける

この歌を詠む〈わたし〉(体験詠ではないので、厳密さをこめて「作者」とせず、奥野氏などは「詠歌主体」としている)は、静かな山家に暮らしているという設定である。孤独な身にあって、「谷の小川の音」は、心地よく、親しい友のような存在である。ところが、冬がくると、小川は凍りついて、音は絶え、その代わりに「峰の嵐」がやってくる。

 式子内親王は、対比表現を好んでいて、この歌でも、眼目はそこにあるといって良い。
つまり、「絶えて」と「と(問)ひ」が人の訪れについては対義語であり、対比表現となっている。嵐が窓を「と(問)ひける」と擬人的表現にしたのは、我々にはおかしく変に聞こえるものの、式子が敢えてそう措辞したのは、嵐の激しさ、つらさを認めつつも、冬に、小川の代わりに訪ねてくれる友、というわけである。この解釈は僕の勝手な解釈にすぎないが、他の類歌を考慮してみると、見当違いではないと確信している。

 式子内親王は、恋歌としては主に「忍ぶ恋」の題を詠んだ。忍ぶことは、和歌の恋題に限らず、日常の生活でも、行動規範、基本姿勢であったと思う。孤独であること、辛いことも、視点、発想を換えれば、忍んで慰めとできるのだ。この一文の意味を明瞭とするために、次回も、そうした和歌を読み解いて行くことにしよう。