先日 塚本邦雄氏が、式子内親王の

  日に千たび 心は谷に投げはてて あるにもあらず 過ぐる我が身を

の評として「新古今調の妖艶な趣はありません。式子の作とはとても思えない一首です。」

と述べていることにふれ、この評で、式子の和歌の真骨頂に気づかされたと書きました。

 その後、『新古今和歌集』入集の数で、西行、慈円の次に七十九首も入っている、新古今時代を代表する歌人の一人、藤原良経(摂関家の出で、摂政太政大臣も務めた、漢学の教養も深い政治家でもあります、現代ではとてもこのような存在はあり得ません、いずれ、このたぐい稀な歌人の秀歌を取り上げます)の和歌を読んでいて、技巧を凝らし、しかも艶のある余情を漂わせる点で、式子内親王の和歌と共通することが分かりましたが、大きな相違点があるのにも気づきました。

 式子内親王は、藤原俊成を師としていました。しかし、師と言っても普通の師弟関係ではありません。俊成にとっても、式子は前斎院という敬われるべき高貴な御方でしたから、直接に指導したとは思えません。おそらく、内親王に仕えている、自分の娘二人を通して、和歌の指導をしたものと思われます。万葉集、古今和歌集、その後の勅撰和歌集などの和歌集類、伊勢物語、源氏物語などの物語類、漢詩文が収められている和漢朗詠集など、それらのの書写本が、女房達を通して、式子の手元に渡り、知識の吸収にいそしんだのでしょう。また、定家や他の新古今歌人たちの詠草も届けられ、大きな刺激、影響を受けながら研鑽を積んだと考えられます。新古今歌人たちが「新風表現」を開拓したことにより、式子内親王もまた、先例のない独自表現を次々と生み、本歌取りや体言止めなどの技法を駆使したのも、こうした同時代の前衛歌人たちの影響によるものです。

 しかし他方、式子内親王は、新古今調とはまったく異なる、冒頭にかかげた和歌のような激しい情意を含み、迫真性に富んだ体験詠と思わせるような(実は今日の研究では題詠とされるのですが)和歌を数多く詠んでいます。

  つらしとも あはれとも まづわすられぬ 月日いくたび めぐりきぬらん

  あはれとも いはざらめ と思ひつつ 我のみ知りし 世を恋ふる哉

  あはれあはれ 思へばかなし つひのはて 偲ぶべき人 誰となき身を

  忘れては 打ち歎かるる 夕べ哉 我のみ知りて 過ぐる月日を

  生きてよも 明日まで人も つらからじ この夕暮を 訪(と)はば訪へかし

  いかにせん 恋ひぞ死ぬべき 逢ふまでと 思ふにかかる 命ならずは

訳を添えなくとも、決して単調、平板ではなく、うねりがあり、振幅の大きい調子が分かると思います。歌の調子から、高まった心を抑えることができないような激情表現と受け取れませんか。特に初句の一気に畳みこむような(時には唐突とさえ感じさせるような)詞に注目してください。また技巧らしい技巧をあまり使っていないことにも着目してください。

 ここで、式子内親王は、塚本氏から、超絶技巧を発揮した和歌の作り手と絶賛されるような、緊密な詞続きとメリハリのある音調を特徴とする、巧緻、周到な和歌の名手だということを思い起こしてください。これまでにも、そうした秀歌をかなり紹介してきましたから、この点については納得されることと存じます。今度は、上に挙げた和歌とは趣きが全く異なるものを、二、三挙げます。

 うたた寝の 朝けの袖に かはるなり ならす扇の 秋の初風


 みじか夜の 窓の呉竹 うちなびき ほのかにかよふ うたた寝の秋

 さ夜深けて 岩もる水の 音聞けば すずしく成りぬ うたた寝の床


選んでいたら、偶然「うたた寝」の詞の入った和歌がそろいました。どうですか。全然、先程の歌群とは調子も様子も違うでしょう。心癒される、今風に言えば、ヒーリング和歌といった具合です。作者の心がとてもなごんでいるのが伝わってきます。

 式子内親王の和歌を全て読んだときの印象の一つとして、命令、呼びかけの表現が割に多く、語気、意志が強く感じられるものがありました。今度は、これまでに取り上げた和歌も含めます。

  跡絶えて いくへもかすめ ふかく我が世を 宇治山の 奥のふもとに

  秋こそあれ 人はたづねぬ 松の戸を いくへも閉ぢよ 蔦のもみぢ葉

  しるべせよ 跡なき波に こぐ舟の 行へも知らぬ 八重の塩風

   ながめつる けふはむかしに 成りぬとも 軒端の梅は 我を忘るな

  百人一首の名歌の第二句「絶えなば絶えね」もそうですね。僕には、その強い語気に、式子自身の肉声のような響きがあるように思えます。いずれにしても、こうした命令表現が和歌に力動感を与えている、特に三番目の初句「しるべせよ」は、高らかで、インパクトの強い出だしで、普通の恋歌とはだいぶ異なった印象を与えています。

 例のごとく、長々しくなってしまいましたが、式子内親王の和歌は、振れ幅が相当大きいというか、とても同一の人物が詠んだとは思えない、といった感想を抱かざるを得ないことが伝わったでしょうか。内親王がさまざまな様相をもつ和歌を作ったのも、内面に抑えがたい激しいマグマのごとき情念をもちつつも、主題に即して、さまざまな技巧を難なく駆使し、さらに入念、周到に仕上げる能力(僕はむしろ親譲りのすさまじいエネルギーと言いたいところですが)があったからです。和歌史の上でも、稀有な存在だと僕は信じています。かつて式子内親王の恋歌に最大限のオマージュを捧げた詩人に、萩原朔太郎がいます。その評言として、
 
  彼女の歌の特色は、上に才気溌剌たる理知を研いて、下に火のような情熱を燃焼させ、  あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛り上がる詩情を包んで居ることである。即ち一言  にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じたもので、(後   略)*

 「日本近代詩の父」たる詩人の正鵠を射た評言に改めて敬意を表します。ともかく、式子内親王という高貴な歌人は、とびきり型破りというか、ひとつの型に全くはまらない、稀有な詩人です。前斎院としては、破天荒な人物と言えますが、どうもこの「破天荒」という言葉、むやみやたらと使われて垢がついている感じがして僕は避けたく、(正しい語法かどうか分かりませんが)「破格の前斎院」と畏れおおいですが呼びたく存じます。

*沓掛良彦著『式子内親王私抄ー清冽・ほのかな美の世界』(ミネルヴァ書房)からの孫引きであること、御了承下さい。