一昨日から昨日にかけて、世界遺産の富岡製糸場と妙義神社を訪ねました。本当は、群馬自然史博物館を観て、翌日、妙義山の中間道という登山道を歩く予定でしたが、前者は燻蒸のため休館、後者は、途中の鉄製階段が修理中(実は、最新のお知らせによると、完了したのだが、これを知らせるHPを見ていなかった)ということで断念しました(後者については、この季節ヤマビルが多いということも気になっていました)。妙義神社は、これまで参拝した神社の中でも、ベストワンにしたいぐらい、深閑としたたたづかいがあり、格式高いところがあって、心も清められた感じがしました。黒漆塗りで権現造りの本殿(国の重要文化財)、城にあるような高い石垣、傾斜がきつく狭く長い石段、苔むし、長年を経てきた石灯籠…参拝する人も少なく、静寂としています。バスの便もなく、車の免許をもっていない僕には行きづらいところでしたが、予定外に参拝出来て、心満たされました。

 さて、今回は、塚本邦雄著『新古今集新論』(岩波セミナーブックス、1995)を読んで、新古今歌人について知り、改めて、式子内親王は、新古今歌人という枠にはめてよいのか、ということを考えました。

 これまで、式子の和歌はすべて読み、ある程度、どういった傾向があるか、分かったのですが、その他の新古今和歌集に多く入撰している歌人については、定家を除いては、あまりというかほとんど知りませんでした。定家の他には、藤原俊成、藤原良経、慈円、寂連、藤原家隆…錚々たる面々ですが、一般的には定家一人が目立っているきらいがあります。

 定家は、何といっても、人々に親しまれてきた『百人一首』の編者として知られ、また当時の歌壇や社会状況についての重要な史料でもある日記『明月記』(近年は、「赤気」(オーロラ)の記録もあって、天文学的資料としても貴重とされていますね)もあり、この2つの点が定家の知名度を高めたのだと思います。確かに歌人として優れていることは言うまでもありません。式子の和歌を読むとき用いた『式子内親王集全釈』(奥野陽子著)でも、比較参考に、定家の和歌が相当な数引用されていて、ある程度、どんな作風であるかは見当がつきました)。定家という歌人の人物像をお知りになりたい方は、ぜひとも堀田善衛著『定家明月記私抄』(全2巻 新潮社)をお読みください。和歌ばかり作っていたのではなく、官人として、親として、経済的生活でもかなり苦労したことがよくわかります。また後鳥羽上皇についても、その超人ぶりが活写されています)。

 その他の新古今歌人については、一般的にはほとんど知られていないのでは、と思います(僕自身もあまり知りません)。今回、塚本邦雄の著書を読もうと思ったのもそのためです。新古今歌人を論じた書は色々あると思うのですが、国文学者の書いたものは、敷居が高くて、読む気になれません。岩波セミナーブックスの本は、一般読者向けで、この著者のものとしては読みやすいものです。一読して、頭が切れ、舌鋒も鋭い人と感じました。塚本氏は、本来、前衛短歌運動の旗手として、活動したのですが、デビュー作は斬新すぎて歌壇から黙殺されたそうです。
 

この本は最初の方で「六百番歌合」「千五百番歌合」といった和歌史上重要な歌合について述べるのですが、当時の歌合の構成、雰囲気、評価の高い番(つがい)などを目に見えるように生き生きと描きます。時には、一刀両断のごとく、すぱっと厳しい評価を下します。「六百番歌合」では、保守的な六条家の歌人と、この時代目覚ましく活躍する御子左家の歌人との対立が目立ちます。六条家は、古きを尊ぶべし、ということから万葉集ファーストです。六条家の代表論客、顕昭が、何と「鯨」で始まる和歌を詠みます。

  鯨取るさかしき海の底までも君だにあらば波路凌がん
  

 「寄海恋」というので、みんな波に寄せるとか、磯のなんとかでさざ波がたったとか。ところが顕昭だけが鯨の  歌をつくるんです。鯨などというおそろしい動物をどうしてうたうのかと(判者の)俊成が言えば、待ってましたと。「鯨取る淡の海[ママ]」という歌が万葉集にもあるじゃないか。あれはいけないのか、と食ってかかるんです。*

 こんな、ざっくばらんな調子で解説するので、よく理解できます。

 しかし、式子内親王について論じた章は、全体として感心できませんでした。こんな大先生に対して、僕のような、和歌についてのろくすっぽ知識もない者がこう申すのもおこがましいですが、式子に魅せられた者としてあえて言わせてもらいます。色々あるのですが、例えば、次のような箇所です。

 ながめつる今は昔となりぬとも軒端の梅は我を忘るな

 菅原道真じゃあるまいし。(中略)私はこの歌大嫌いです。敢えてそう言っておきます。こんな歌、新古今集にはいるのがおかしい。

著者は、他の和歌では大絶賛している場合もあるのに、この和歌では、全くの無理解で、感情的になっているようにさえ感じます。この和歌は、勿論、菅原道真の有名な和歌を下敷きにしていますが、『源氏物語』真木柱巻の歌の方が元になっていると判断できます。新古今調の秀歌ー特に良経のーを高く評価するあまり、それ以外の歌は、過小評価というか、全然分かっていません。この和歌については以前取り上げたことがあるので、そちらをご覧いただきたいのですが、結句の「我を忘るな」にただならぬ強い語気と思いが込められていることを感じなくてはならないのです。また「ながめつる」という初句にも式子の全人生をふりかえらせるような響きがあります。これは僕の勝手な評価かも知れませんが、式子の和歌の中には、激しく、強い、精神の強靭さを秘めた心情の表白、吐露があることが、新古今歌人の枠にはまらない、式子らしさだと考えています。

今回もとりとめのない文章になってしまいました。次回、上で述べたことをより丁寧に説明していこうと思っています。

それから、塚本氏のまったく無理解な文に接し、和歌は自らが感じたように読解すればいいのだ、プロでもある人が、無茶苦茶のことを言っているのだから、アマの僕は、たとえ見当外れであっても、感じたことを素直に言い表しても許されるだろうと、かえって気が楽になりました。

* この引用で()内は筆者の注で。「淡の海」は、「淡海乃海(あふみのうみ)」か?。
。「淡海乃海」はふつう琵琶湖を指します。