式子内親王の和歌を二度すべて読み終わり、いよいよ、いくつかのテーマを決めて、本にまとめよう(今のところまだ大それた願いにすぎませんが)と始動しました。昨日は、斎院退下(たいげ)の前まで、以前に書いたものを直しました。内親王が和歌に打ち込む姿勢は、父、後白河院から譲り受けた気質のため、とこれまでは思ってその旨書き記していました。

 ところがです。今朝、部屋の片づけをしていたところ、確か昨年末に観に行った『やまと絵ー受け継がれる王朝の美』(東京国立博物館 平成館)の分厚い(3㎝ほど)図録が出てきました。『源氏物語絵巻』の箇所でも見ようと、ぱらぱらめくっていたところ、院政期の絵巻についての次の解説に目がとまりました。

 この時代(*院政期)、なかでも後白河天皇は絵巻物を大変愛好したことで知られます。後白河天皇のコレクションを納めた蓮華王院宝蔵には多くの絵巻が収蔵され、「宝蔵絵」として後世の絵巻の規範として珍重されました。

 

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 僕は、この記事を読んで、はっとしました。後白河院が親王の頃から、今様に熱狂して、とうとう『梁塵秘抄』という文学史にも残る歌謡集を編纂したことは承知していたのですが、このような中世美術史にも貢献していたとは。法皇は、芸術的天分に極めて恵まれていたのです。

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を御覧になった方なら、よく御存知だと思いますが、後白河院は、源頼朝から「日本一の大天狗」と称されて(この由来説は正しくない、という見解もあるようですが)、源平争乱の混沌とした世を巧みに渡り歩いた(政治的に上手く立ち回った)人物として、描かれてきました。ドラマでは、芸術分野で上のような足跡を残した人物とは全く思えず、カリカチュアされて、いかがわしい狸じじいのようにしか見えませんでした。

 これまで、僕は、式子内親王の父として、好奇心が並大抵でなく、集中力がものすごく、エネルギッシュな(難行苦行の連続である熊野詣34回と歴代法皇でトップ、あの後鳥羽上皇でさえ28回)性格が娘にも遺伝したと考えていたのですが、芸術的天分も受け継いでいたと見解を改めねばなりません。

  内親王に絵の才能もあったことは、式子の死後だいぶ経ってから、定家が『明月記』に書き記した月次(つきなみ)絵巻についての記事からも知られています。今はそれについて詳しくは述べませんが、定家の娘(民部卿典侍)が幼少の頃、式子から「月次の絵」を賜り、ずっと大切にもっていたのですが、宮中で、絵巻制作が大々的に行われた時、その絵巻を参考にと、当時の女院に進上したところ、後堀河院が、詞も絵も式子自筆と知り、その見事さを称えたといいます。
 

 月次絵巻というように、各月ごとに古の和歌、物語にそれにふさわしい場面の絵を配したものです。それらの和歌や物語も幅広く選択されていて、絵の場面も、宮廷の場や季節の行事、恋物語、出家などバラエティに富み、二つとして重なるような題材はなかったようです。つまり、式子は、相当な量の和歌集、物語、日記を手元にもち、その中から、実に的確な選歌を行い、それに相応しい絵の場面を配する高い能力があったこともわかるわけです。

 音楽の方面でも、式子は、師の俊成の前で箏(そう、しょう、琴に似た絃楽器)*を弾いた、と『明月記』(治承五年九月二十七日条)に記されています。何事にも打ち込むタイプの内親王ですから、こちらの腕も相当だったと思われます(それにしても、皇女という高貴な女性が、人前で弾くというのも、慣習、先例にとらわれない式子らしい振舞と言えませんか)



  式子には、情景が容易に目に浮かび、同時に音や響きが聞こえてくるような和歌が少なからずあります。

  山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水

  更けにけり 山の端ちかく 月さえて 十市(とおち)の里に 衣うつこゑ

  伝へ聞く 袖さへぬれぬ 波の上 夜ふかくすみし 四の緒の声


 最初の和歌では、緑から純白(透明?)への鮮やかな色彩の転換が見事です。「た(絶)えだ(絶)えかかる」という詞により、「玉水(=雫)」が間欠的な音を立てるのを意識させる絶妙な効果があります。二番目の和歌では、歌枕「十市の里」の「十」には「とおい(遠い)」と掛けていて、遠く離れた空間が意識されます(式子は歌枕の使い方も巧みなのです)。「月さえて」により、「衣をう(打)つ」音が月が澄み冴える空に響き渡るのが、鮮やかに表現されています。最後の和歌では、「夜ふかくすみし」により、夜の深々とした静寂のなか、「四の緒=琵琶」の奏でる悲しい(「袖さへぬれぬ」から分かる)音色が読み手に印象深く伝わるのです。拙い説明ですが分かりますか。二番目の和歌で「衣うつ」のはどうしてかについては、以前「秋の歌」で取り上げたことがあるので、そちらを参照してください。最後の歌も本説(白居易の漢詩「琵琶行」)がありますので、いずれ取り上げます。

 上の和歌でも、式子内親王が、視覚的にも聴覚的にも、鋭い感覚の持ち主だったことは明らかでしょう。こうした素質も、やはり父院から受け継いだものにちがいありません(今はDNAのなせるわざ、とでもいうのでしょうか)

*琴と箏(いずれも、訓読みは「こと」)は本来違う楽器のようです。それに「こと」は「箏」の字を当てるのが本来正しいようです。その違いをよくわかりやすく解説した記事を見つけましたので、リンクしておきます。ぜひ御覧ください。

 「箏」と「琴」は異なる楽器