先日、山本淳子著『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日選書)のレヴューをAmazonに投稿しました。僕にしては、まずまず良く書けた書評となりましたので、より多くの方に読んでいただきたく、一部書き直して、転載します。

 

 

Amazon.co.jp: 道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか―― (朝日選書) eBook : 山本 淳子: 本

 

 

 道長と言えば、例の和歌が引用されて、栄華を極めた人物として語られてきました。しかし、 日本史上最も有名なこの平安貴族が、どのような死を迎えたか、また、家族思いでもある道長の娘3人が、父親の晩年に相次いで亡くなっているという悲劇を御存知の人は、かなり少ないのではないでしょうか。
 

この書を読み終えて、思い起こしたのは、ヘロドトス『歴史』の有名な幸福問答です。権力の絶頂にあり、莫大な富を見せつけて、クロイソス王は、賢者ソロンにこう問います、「この世で最も幸福な人物は誰か?」と。賢者の答えは、「人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人間と申すのは差し支えねばなりません」でした。この問答後、ペルシアとの戦いに敗れ、王国は滅亡します…
 

道長は末っ子で、本来なら最高権力者の地位は望むべくもないのでした。しかし関白となった二人の兄が相次いで病死し、感染症流行により上位公卿が多数死に、ライバルである甥も自滅していく、という〈幸い〉(この書のキーワード)により、栄光の座につきました。だが、その頃から病に悩まされることになります。道長は兄たちの〈怨霊〉によるものだと怯えていました。この書は、最高権力者の地位を手にいれたものの、一面では〈怨霊〉に取り憑かれたと考え、怯えていた道長の内面の歴史を、当時の『小右記』『権記』といった一級史料、史料としては信頼性に欠けるが、当時の様子をよく伝える『栄花物語』などを丹念に読み解いて追求した(平安文学研究者である著者が得意とするところ)優れた書と考えます。平安時代は、その名に反して、災害が多発し、感染病も頻繁に猛威をふるいました。災いは〈怨霊〉のたたりとされました。〈怨霊〉〈物の怪〉といったことを抜きにして、この時代は語れません。菅原道真の怨霊を慰めるため、北野天満宮が造営された経緯はそれを裏付けるものです。平安京遷都からして、〈怨霊〉の影がぬぐいえません。
 

道長の晩年に戻ります。道長の死の2年半ほど前、寛子(側室・明子腹の長女)が亡くなります。その原因は、〈怨霊〉によるものとされました(『栄花物語』)。それも道長が孫の敦良親王を春宮につかせる企てで、娘の寛子をその駒としたことが端緒でした。その一か月後に、本妻の倫子腹の末娘、春宮妃・嬉子が出産後まもなく夭折、時に19歳の若さでした。当時の僧俗男女が嘆き悲しんだ、という記録が残るそうです(『左経記』)。道長と同年、3か月前に亡くなったのが、皇太后・妍子、34歳です。『栄花物語』は、妍子の最期の様子を生々しく伝えています。その四十九日前後に、道長の病も目に見えて悪化したといいます。


  欣求浄土の思いで法成寺を造営した道長でしたが、その死の道筋は酷でした。一か月前から失禁が始まり、下痢が止まらず、体の痙攣も起こしたといいます。死ぬ2日前には苦悶の声を上げ、62歳で薨去、最後の言葉を伝える史料はありません。


  晩年から死にいたる経緯を知って、道長が幸福だったと断言できるでしょうか。道長は、権力者には珍しく、家族思いでした(本妻には頭が上がらないエピソードー自画自賛したために、妻倫子を怒らせてしまい、宥めるために妻の後を追うーも良く知られています)から、3人の娘に相次いで先立たれたことにひどく悲嘆し、死期が早まったのでしょう。


  これまでの道長像は、その栄華やそこに至るまでの過程、絶頂を極めた後は、極楽浄土を願って、法成寺造営といったところに焦点がほとんど当てられ、この書のように、上記のような晩年の姿に注目することはほとんどなかったのではないでしょうか。晩年に至って、転げ落ちるかのように〈幸い〉からも見放されてしまいます。この晩年の姿を史料や伝記物語を駆使して説得力豊かに描き切っただけでも、この書の価値は高いと考えます。読後、人間はみな無常の身であることをしみじみ感じざるを得ませんでした。
 

 蛇足ですが、著者の「あとがき」は、この書の執筆意図、趣意を深く理解するにも必読です。道長の心の歴史を追うことになったのも、著者の研究の原点である紫式部の日記記事がきっかけだったと語っています。その読みも従来の研究者とは異なり、既成観念に縛られず、納得のいくものです。著者は、紫式部や清少納言に関しても、歴史学者が顔負けするくらい史料を駆使して鋭く的確な分析をし、なおかつ文学研究者として「心」に焦点を当て追求する姿勢を貫いたことにより、優れた書となったものと筆者は考えています。
 最後にもう一言だけ、「あとがき」は「令和五年 紅葉の嵯峨野にて 遠い戦火に心をいためつつ 著者しるす」と締めくくられます。僕も、ガザやウクライナの悲惨な状況に今はいつも心痛めています。同じ思いをなさっている、著者の言葉に深く感じ入り、敬意を抱いています。