5月15日に行われる葵祭、「路頭の儀」を観に行くので、まず自分も葵祭についての基礎知識をつけようと、ネットで調べたことをまとめて、今回、ブログの記事とします。

 葵祭は、今日、京都の三大祭(あと2つは祇園祭[7月]、時代祭[10月])の一つで、最も古く、平安時代以降は、国家的行事(今は違います)として行われたものです。普通の祭と大きく異なるのは、普通、お祭りというと、神様を神輿に乗せる、つまり神様がお出かけするのですが、この祭では、天皇のお使いである勅使が賀茂神社(賀茂別雷〈わけいかづち〉神社[上賀茂神社]と賀茂御祖〈みおや〉神社[下鴨神社])に参って、お祈りを捧げる儀式だということです。今日でも、平安時代の基本様式をできる限り忠実に踏襲し、継承するお祭りなのです。

 葵祭(正式名称は賀茂祭)は、今から約1500年前、6世紀の欽明天皇の時代、風水害が起こって凶作が続いたため、占わせたところ、賀茂の神様の祟りだと分かり、神勅(神様のお告げ)に則って、馬に鈴をつけ、走らせて、豊作を祈願したのが祭りの始まりだそうです。

  賀茂神社は平安京ができる以前からありました(元々は氏神をまつる神社)が、京都に遷都されると、国家を守護する神社となり、賀茂祭は国家的なお祭りと発展します。しかし、応仁の乱で中断し、江戸時代元禄期にようやく再興します(1694年)。その後、内裏殿の御簾を始め、牛車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬に至るまで、全て葵の葉(古くから賀茂神社の神紋は二葉葵)で飾ったため、葵祭と呼ばれるようになったとされています。なお、徳川家の家紋は三つ葉葵であり、その縁で将軍家も葵祭の再興を援助したと伝わっています。さらに明治維新や戦争の際も中断したものの、今日に至っています。

賀茂祭は、『源氏物語』『枕草子』にも出てきます。
『源氏物語』第9帖「葵」では、光源氏が賀茂祭の前の御禊に随行するということで、その姿を一目見ようと、愛人である六条御息所の車が先に来ていたが、後から来た正妻である身重の葵の上の乗る車と、場所の取り合いとなり、結局、御息所は、葵の上の供の者から罵倒され、車もひどく壊されて、屈辱を味わうことになります。その後、葵上は、男子を主産したものの、誇り高い御息所の生霊により、命を絶たれます…本当に怖い話ですね。
『枕草子』では、第五段で「祭りのころいとをかし」と始め、その頃の天候の具合や、」祭りを楽しみとしている少女たちの様子を描いています。

さて、5月15日の葵祭は、現在2つの儀式から成り立っています。
まず「路頭の儀」で、黒の束帯をまとった近衛使代(このえづかいだい)(勅使の役目を近衛中将という役職の者が通例務めたためで、代というのは本当の勅使ではないから)をはじめとする平安装束をまとった行列が賀茂社に向かう儀式です。総勢500人程が馬や牛、牛車、輿と共に約8㎞、5時間程かけて練り歩くのですから、結構大変だと思います。行列の華は、何といっても、斎王代(こちらも、元は賀茂の斎王(斎院)が務めていたから)で御腰輿(およよ)に乗って、女人列を従えて進みます。着ている十二単衣は20㎏(30㎏?)もあるそうで、優雅とばかり言えず、こちらも大変ですね。なおウィキペディアによると、斎王代は、京都ゆかりの未婚女性から選ばれるということですが、一般公募ではなく、資産家の令嬢などから多く選ばれた、とありました。ちなみに今年(第66代)は、京都・壬生(みぶ)寺の貫主の娘で大手旅行会社員が選ばれました。
 もう一つの「社頭の儀」は、賀茂両社の境内で営まれる儀式で、祈りが捧げられます。

葵祭 京都観光Navi

「葵祭」の基礎知識 
 

「葵祭」がわかる6つのポイント

葵祭というと、実質的には「路頭の儀」を指しているようですが、実は、ゴールデン・ウィーク中に、「前儀」と呼ばれる行事が催されています。5月1日には「競馬足汰式(くらべうまあしぞろえしき)」、5月3日「流鏑馬(やぶさめ)神事」、5月4日「斎王代御禊(みそぎ、ごけい)の儀」といった神事が、賀茂神社で行われます。

 

競馬足汰式

 

 

流鏑馬神事

 

斎王代御禊の儀