前回の記事は、これまでになく不評でした。投稿した時点から、ちょっと悪い予感が実はありました。結論めいたことを急ぎ過ぎたために、論旨にも無理があり、要らぬ言葉も吐いて、散々な出来でした。読者にも、そして何よりも式子内親王に本当に申し訳ないことをした、と深く反省しています。

 そこでもう一度、前回の和歌を取り上げたいと思います。和歌自体は、確かに名歌と言えるものではありません。内親王の和歌は、掛詞、縁語、本歌取りなどを好んで、巧みに用い、倒置、体言(名詞)止めも多用して変化、余情をもたせ、詞続きも入念、周到で、構成も緊密で巧緻です。その結果、出来上がった和歌は、姿が麗しく、端正なものが数多くあります。ところが、

   恨むとも 歎くとも 世のおぼえぬに 涙なれたる 袖の上哉

 この和歌は、歌意も平明で、特に技巧も見られず、端的に言えば、式子らしさがあまり感じられません。何か、ふとつぶやいたことをそのまま歌に詠んだような印象さえ与えます。これは、どうしてなのでしょうか。改めて、いろいろとその理由を考えてみました。技術面についていえば、もう十分に質の高い和歌を詠むだけの能力はもっていました。

 この歌と前々回取り上げた和歌も同様に、A百首歌(『式子内親王集』の第一番目の百首歌)の最後の方にあり、そこには、世を憂しとはかなみ、精神的苦悩、心的葛藤がありありとうかがえる和歌が数首並んでいます。歌を詠むにも、精神的につらい状態にあったのではないでしょうか。つまり、いつもの式子らしく、技巧を尽くし、入念に仕上げるだけの余裕がなかったと思われます。

 では、内親王をそうした苦悩へと追いやった原因は何でしょうか。これから述べることは、あくまでも、専門家でもなく、研究と言えるようなことは全くしていない僕が諸書で聞き知ったことに過ぎないことをご承知おきください。ただ内親王のことをほんの少しでも深く知りたいという気持ちは強くあります。

 この和歌が入集しているA百首歌の成立時期は、正確には分かっていないようですが、出家(42歳から43歳ごろ)後であることは確かです(A百首歌の中に、出家している身であることをほのめかしている和歌があります)。内親王が出家するというのは、特に珍しいことではないのですが、式子内親王の場合は突然で、父後白河院も反対したそうです。

 この出家の原因については、以前書いたのですが、再度記すことにします。藤原定家が、その日記『明月記』で、前斎院の死後、出家の経緯について書き記しています。前斎院は、出家する前、おばの八条院のもとに身を寄せておられたが、広大な八条院領の相続の件で、女院とその姫宮を呪詛したため、女院が病気になったなどと戯言されて、同居が困難となり、父の御所で出家されたと聞いている、と。事実はどうも、姫宮かその周辺があらぬ噂を流したようですが、呪詛の嫌疑を掛けられた式子のショックは図り知れなかったでしょう。斎院という言わば世の中と切り離されたところで少女時代を過ごした後も、和歌に打ち込んでいて、世の中というものを知らずにいた内親王の心はひどく傷ついたことは間違いありません。

 出家後も、この呪詛事件でのショックは、消し難いものがあったでしょう。こうした背景において、「恨むとも…」をはじめとする和歌群が詠まれたわけです。そして、前回、この優れているとは言えない和歌を取り上げ、軽視したくないと言ったのは、上三句「憂き世を恨んでいるのでも歎いているのでもなく」と詠んでいるように、式子は終生、厭世的な内容の和歌を決して詠まず、むしろ自己の心のあり方を問う、自己を凝視するような姿勢をくずさなかったいう意味で、この和歌の意義がある、と考えたからです。

 どうでしょうか、前回よりはずっと、こちらの伝えたいことが伝わったのではないか、と信じています。


 長々とした駄文をお読み下さり、ありがとうございます。