今回は、前回取り上げたものの次に来る和歌を読みましょう。内親王の歌としては、特に技巧も見られず、歌意も平明な作品と言えます。

  恨むとも 歎くとも 世のおぼえぬに 涙なれたる 袖の上哉

《歌意》(心では)憂き世を恨むとも歎くとも覚えがないのに、(身では)涙にくれるのが馴れてしまっている袖の上よ

 もうだいぶ式子の歌を読んできましたが、本当に分かりやすいと思いませんでしたか。率直に、自分と向き合って詠んでいる歌で、名歌とは言えませんが、残されている歌を全部読んできた自分としては、この簡明な歌を軽視したくはありません。どうも私たちは名歌・秀歌に惹きつけられるあまり、この歌のように、作者の基本的スタンスといったものを明瞭に示している歌を(名歌ではないとして)注意を怠ってしまう傾向があるように思えます。一流、一品をことさら好む日本人の心性に由来する悪しき一面なのでしょうか。

 上三句で詠むように、内親王は、確かに憂き世を恨んだり、歎くような趣旨の和歌を決して詠んでいません。厭世的な態度は決して示さないのです。分かりやすく言えば、人のせい、世の中のせいには決してしないのです。言葉を換えると、矛先を常に自分自身に向けるのです。ちょっと高等な言葉を用いるなら、内省的、自己観照的な態度が顕著なのです。この歌でも、心の中では、恨んだり、歎いたりする気持ちはないのに、どうしようもなく涙にくれてしまうという身の反応をしっかりと認識しているわけです。

 この自分の内に向かう姿勢は、式子内親王が恋の題詠で数多くを占める〈忍ぶ恋〉の和歌にも通じています。ある題詠では、自分から去った薄情な恋の相手を恨まず、自分の心の変化の方を見逃さず、凝視するような作品もみられます。また、自分の恋心が、相手に知られることを極度に恐れ、忍ぶ恋に徹する態度をとるという趣旨の歌もあります。

 この自己に内攻する姿勢は、式子内親王の和歌を理解する上で、キーとなることですので、ぜひ覚えておいてほしいと思います。次回は、こうした内面を見つめる姿勢が顕著な歌を取り上げたいと存じます。