僕の住むところでは、桜もすっかり葉桜となり、新緑の季節となりました、これまでは、初夏という言葉にはよく接しても、暮春、晩春という言葉には、あまり意識が向きませんでした。晩春というと、小津安二郎の名作『晩春』ー往年の名女優、原節子の笑顔が何とも忘れられないーが思い出されるぐらいですから。
 
でも、式子内親王の和歌を取り上げるようになってから、季節の節目の言葉には確かに敏感になってきました(引き出しが一つ増えたみたいで嬉しいです)。ということで、今日は暮春の歌をご紹介します。

  暮れて行く 春の名残*を ながむれば 霞の奥に 在明の月


 *「名残」は、僕がテキストとして用いている奥野陽子著『式子内親王集全釈』では「のこり」となっているのですが、「春ののこり」が「春に残された日にち」の意で用いるとあり、「名残」を「わずかにのこっている春の面影」としており、意味の結びつきの点で、「名残」の方がしっくりくるので、「名残」を採りました。

この和歌は、これまで(ここ最近)取り上げた記事を読んで下さった方には、分かりやすく平明なものでしょう(そのため歌意は省きました)。「ながむれば」「霞」「在明(有明)の月」など、式子好みの詞が用いられていること、すぐに気づかれたことと思います。

上句は、確かに惜春の情を詠んでいると思いますが、下句は、暮れ行く春の霞の奥に見える、空に残る在明の月が春の名残をとどめる、という点に力点が置かれているように思われます。霞がかった在明の月は、淡く、ほのかな美しい光景でしょう。ただ、「在明の月」が出てくる前々回の和歌

残りゆく 在明の月の もる陰に ほのぼの落つる 葉がくれの花

に比べると、細部の描写において、物足りないと感じるかもしれません。また「ながむれば」も前回の和歌のそれと比べると、物思いの度合いが多少軽いようにも感じられます。

もうお気づきの方も多いと思われますが、式子内親王の和歌では、名詞(体言)止めがかなり多いことも、特色のひとつです。特に「在明の空」「夕暮の空」などで何度となく締めくくられます。これは余韻、余情を生じさせる効果があり、確か新古今時代に好まれた用法です(『新古今和歌集』に収録された、「秋の夕暮」を結句とする「三夕(さんせき)の歌」が有名な例ですね。ネットで検索したら、俵万智のあの「サラダ記念日」の短歌が現代短歌の有名例として挙げられていました)。

今日の和歌は、式子内親王が得意とする巧緻な構成の歌ではないので、ちょっと味気ない気もしますね。次回は、夏の歌を取り上げたいと考えています。