今、雨がしとしとと降っています。桜の花も散りました。今日、取り上げる歌は、偶然ですが、今日の気分に添うというか、ふさわしい和歌と言っていいかもしれません。

 花は散り その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる 
                                                   新古今和歌集 春下 一四九

《歌意》花は散ってしまい、なんということもなく、ながめていると、何もない空に春雨が降っている(ことに気づいた)

 この和歌は、死の前年、それも半年ほど前に詠まれた『正治百首』に入っている、即ち、最晩年の作ということになります。これもまた、式子内親王の和歌のアンソロジーを編むとしたら、絶対に落とせないものの一つです。一度読むだけで、桜の季節が終わって(つまり晩春になって)、放心したように虚空を眺める内親王のひとりたたずむ姿がありありと浮かびませんか。

 しかし、この歌の解釈は、吟味してみると、意外に難しいのです。どう解釈しているのだろうと、諸書をいろいろと見たのですが、その解釈は細かい点でみなそれぞれ一致していません。無常感が根底にあるということは確かだと思うのですが、末句の「春雨ぞふる」をどう捉えたらいいのか、確かなことは分かりません。

 でも、いつも思うことですが、秀歌というものは、一義的に解釈できないし、すべきではないと考えています。このような奥行きの深い歌は、さまざまな解釈を許す(勿論、全く見当はずれなものはいけませんが)のではないでしょうか。

 この歌は、確かに晩春の歌というのは間違いないのですが、惜春の歌とはどうも言えないような気がします。それよりか、もう余命いくばくもないことを意識している内親王の心情が透けて見えるような歌と感じます。ある本に「花が散ったのちのやるせない情感をしっとりと詠じた歌」という評がありましたが、この評が比較的僕の感じ方に近いと言えます。

順序が逆になってしまいましたが、歌の趣意をなるべく正確に把握するためにも、語釈を添えます。最初に第二句の「色」ですが、この語は、奥野氏の語釈の通り、仏教語としての「色」、「色即是空」というように、あらゆる物質的存在を指します。しかし、これだと哲学的な意味なので、ここでは漠然と「もの」を意味すると考えるのがよいでしょう。どうして仏教語の意味なのか、といえば、下句の「むなしき空」も仏教語、漢語の「虚空」による表現で、「何にもない空」を意味するからで、式子内親王の周到な詞遣いがこの和歌でも発揮されています。最初にこの和歌を読んだとき、この「むなしき」が、作者の空しい気分を表している、と単純に思いました。虚空が、作者の心象風景とみなせるならば、桜花が散った後のどこかうつろな気分を投影していると考えてよいのではないでしょうか。

 「ながむれば」は、もう何度も言ったような気がしますが、式子内親王が愛用する表現で、単に眺めるということではなく、物思いに沈んで、といったニュアンスがあります。「ながめ」が「長雨(ながめ)」とよく掛けて用いられます。ここでも「春雨」と響きあっていますね。

 末句の「春雨ぞふる」をどう受け取るかですが、奥野氏は、一例として、

  はるさめの ふるとはそらに みえねども さすがにきけば のきのたまみづ
                          宮内卿 三百六十番歌合 

春雨が、空に降っている時には、目に見えぬものとして、和歌では詠まれると指摘しています。式子の歌では、空には見えないはずなのに、春雨が降っていると認識していることになり、矛盾するような、意表をつく表現を好む式子らしさが感じられ、この意味合いがこめられているのでは、と思います。さらに奥野氏は、もう一歩進めて、哲学的解釈を述べていますが、ちょっと小難しいので、割愛します。

この和歌では「はかなし」といった詠嘆の詞はふくまれず、晩年に至った淡々とした境地を感じさせる和歌だと思います。でも、これは僕の思い込みかも知れません。何かお気付きのことありましたら、是非お知らせください。

 

2024年4月24日記

《追記》 今、ジョギングをしながら、春雨について考えをめぐらしました。春雨は、春に降る雨の中でも、特に細やかにしっとりと降る雨を指すようです。僕には、桜花が散った後の空虚感に潤いを与えるような、うつろな気分を慰撫するような、優しい小雨のイメージを、式子内親王が表したかったのではないか、と思います。皆様は、どうお考えですか、ご意見を頂ければ、嬉しく存じます。