今日取り上げる、桜を詠んだ歌は、A百首(式子内親王の和歌の研究者にとって、これが通称ですが、どうも味気ないと感じる方、『前斎院御百首』という名称もあります)の中で、新古今和歌集に入集されている、一番若い番号のものです。

  はかなくて 過ぎにし方を かぞふれば 花に物思ふ 春ぞへにける  春下 一〇一

《歌意》はかなく過ぎてしまったこれまでをあれこれ思って数えると、花についていろいろ物思いをする春を幾度も経てきたことよ

 和歌にあまり接したことのない方でも、名歌と思わせる和歌ではないでしょうか。 古今集の代表的歌人を始めとして、桜の花に寄せて、数々の名歌が生まれましたが、それらの和歌とまったく遜色のない和歌と僕は考えています。この歌は、式子内親王の最も有名な百人一首中の恋歌(*1)

 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

この激しく切迫した声調の恋歌と、全く正反対の澄み切って、穏やかな心境にあるような、気品ある詠みぶりで、年老いてから詠まれた和歌のように思われます。縁語、掛詞、本歌取りといった技法も全く用いず、巧緻な詠風の式子内親王にしては、極めてシンプルな和歌と言えます。

 ではこの和歌は実際、いつ頃詠まれたのでしょうか。新古今和歌集の優れた評釈者である窪田空穂は、「老境に望んで、わが身をかえりみて、我もまた、はかなくて過ぎたと思う(後略)」と老年の作と評しています。逆に20代の作としているのが、式子内親王の評伝の名著を著した馬場あき子で「この20代の若い詠嘆は、(中略)流麗な声調の哀感の方がまさっているような一面がある」とこの和歌について記しています。

 A百首の成立時期は、いまだ定説がないようです(学界にいるわけではないので最新の研究成果は分かりません)。最新の評伝(2018)を刊行した奥野氏は、「文治建久期に詠まれたことは動かない」としています。つまり数え年で37歳から50歳までということになります。A百首の和歌の中に、出家したことをうかがわせる和歌があることを考えると、出家したのが42~43歳ごろと推定されていますから、いずれにしても40代半ば頃に、今回の桜花の歌が詠まれたと考えてよいでしょう。当時ですと、40代は、老いを意識する頃であり、窪田空穂の評は的を得ているかもしれません。

なお、初句「はかなくて」の詞から、作歌事情として、父後白河院の崩御を想定する説もありますが、僕はこの説に賛成したくありません。「はかなし」という言葉は、平安期の和歌や日記に頻出する言葉であり、式子の生きた時代にあっても、源平の争乱あり、疫病や地震、干ばつ等が頻繁に起こり、当時の人々は総じて、無常の世の中と感じて、「はかなく」思っていたからです。世の中全体のムードが「はかなし」と一語で集約できる時代だったのです。それを、個人の特定の状況と関連付けてしまうと、歌を正当に評価できないような気がします。やはり内親王は常々、世の中や人生を「はかなし」という思いを抱いて過ごしていたのではないでしょうか。

 さて、この和歌は、前回の予告で、和歌の伝統に沿った作だと述べました。古今集以降、美しい花を咲かせるものの、たちまちにして散っていく桜花に、うつろいやすさ、無常を感じ、さらに人の世、人生も同様だとする無常観を詠った和歌が顕著になってきたことです(*2)。この桜花と無常観の結びつきは、今日に至っても、人々の間に浸透していると思われます。式子内親王の歌が深く身に染みる名歌と感じられるのも、和歌の根底にこの無常観が潜んでいるからだと思われます。


*1 この百人一首の名歌は、かつては、実人生との関連で、体験詠とされていたのですが、今日では、「忍恋」という歌題の題詠であり、男性の立場で詠まれたもの、と受け取られています。詳しくお知りになりたい方は、今年1月に出版された『百人一首 編纂がひらく小宇宙』(岩波新書)「式子内親王が「男装」した歌」164頁~を御覧ください。

*2 ネット上に 古今集の桜を詠んだ歌を分析した論文が載っています。非常に勉強になります。ぜひ御覧ください。特別寄稿 古今集の「桜」と小野小町