今日は、母の命日。朝6時35分かっきり二分近く合掌。昨年この時、丁度訪問看護師が来て痰の吸引をし終わった時に母は息を引き取った。苦しい表情もまったく見せず、本当に静かにそうっと旅立った。僕も不思議なくらい、悲しくはなかった。前日夕方、看護師から、もう間もなくね、と言われて、僕もその晩、心の準備をした。朝方、イチゴとキュウイをごくわずか口にし、かすかに「うまい」とささやいてから意識も失って、顎を大きく動かして肩呼吸をしたかと思うと、息が止まったかのように喉もピクリともしなくなるのを一晩中波のごとく繰り返した。僕はただ「もういいよ、お母さん、安らかにして」と何十辺も呼びかけた。そうしてとうとう夜が明けた。

 母は、人に厄介をかけることを何よりも日頃から嫌っていたので、朝まで生き延びたことは、母らしい最後の頑張りだったと信じています。今、母が長生きしてくれたおかげで、毎日、自由に好きなことができる生活を送れて、母にはいくら感謝してもしきれない気持ちです。ふがいない息子でしたが、母の元にいて、20年以上介護を続けられ、自宅で看取ることができたことだけは本当に良かった、と思っています。

 一昨日、ようやく靖国神社の桜も開花して、今回丁度良く、桜を詠んだ歌を取り上げることができるのは幸いです。前回、式子内親王が桜よりも梅の方に愛着があった、と書きましたが、だからと言って桜の歌が劣るということでは決してありません。よく読んでみると、式子らしさがやはり感じ取れます。

  いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしき哉

《歌意》今、桜が咲いたと見えて、空は薄曇り。春らしく霞んでいる世の景色よ。

『新古今和歌集』 春上 八三に入集されています。撰者四人が共撰し、高い評価が与えられています。歌の姿というものが見事なせいでしょうか。

この和歌は、式子の作品としては割と分かりやすいのですが、細かい点になると、解釈は、微妙に異なります。特に第四句「春にかすめる」の「に」の解釈です。『全釈』の奥野氏は、諸評釈書のそれぞれ異なる解釈を挙げて、さらに詳細極まる分析をしていますが、率直に言うと、僕の乏しい頭脳では、分かったような、でも本当のところ理解が及んでいないようなところです(悪く言うと、理屈っぽすぎると感じます)。僕は、次の春霞を詠んだ歌から、内親王が、春の霞渡った光景を好んでいることが分かるので、「春らしく」とすっきりと解釈することにします。

  春ぞかし思ふばかりにうちかすみめぐむ梢ぞながめられける

《歌意》本当に春ですね。十分なほど春らしく霞渡って、芽を出し始めた梢が眺められます

霞む光景に春が来たことを喜び、心が弾んでいる歌だと感得できます。新古今集の名歌も、桜花と春霞を組み合わせて、それらが織りなす光景を「世のけしき」と大きく美しく捉えた歌だと思います。繰り返し述べていますが、式子内親王は、くっきりした色合いではなく、「ほのかな」色合いを好むように、花曇りの霞渡っているさまをことに愛でているように思われます。

補足として、歌の調べにもぜひ注目してください。上句の心弾むようなリズムと、下句ののびのびとして、おおらかな響きの好対照に技量の冴えを感じていただきたいものです。