3月20日に突然アクセス数が急に跳ね上がりました。何故だろう、と首をかしげていましたら、平安時代の事柄全般に詳しい上に、記事も痛快で面白く、僕も愛読させていただいている「前世はきっと平安貴族」様からコメントが届き、愛子様が式子内親王の和歌を卒論のテーマになさったニュースが報道されている旨を知らせていただき、ああ、そうだったのかと納得しました。本当に喜ばしいことです。このニュースがきっかけとなって、僕の拙いブログに接してくれる方が増えるなんて、予想もつかなかっただけに感謝感激!といったところです。愛子様は、どうして、式子内親王をお選びになられたのでしょうか、ぜひとも知りたいところです。勿論その和歌に魅了されたのかも知れませんし、同じ内親王という御身分から親近感をもたれたことも手伝っているかもしれませんね。いずれにしても、愛子様とその和歌の素晴らしさを共有できていると思うと嬉しいの一言です。

 いつまでも浮かれていてはいけませんね。前回は式子らしさが満載の和歌だったのですが、今回は、とても軽やかさが印象的な和歌を取り上げます。

 
 匂ひをば衣にとめつ梅の花ゆくへも知らぬ春風の色

《歌意》その芳しい匂いを衣にとめた、梅の花よ。行方もわからない、散った花が乗せられていく春風の色(様子)よ。
 
この歌には本歌があります。古今集のよみ人しらずの歌です。

 梅がかをそでにうつしてとどめてば春はすぐともかたみならまし 春上 四六


 本歌は、梅の香を袖にうつしてとどめておけば、春は過ぎても、形見になるだろうに、と梅に寄せる執心がうかがえます。つまり人間の強い執着が働いています。

 式子歌の「梅の花」が風により散った花であることは下句の「春風」から暗示されています。本歌とは違って、梅の花は能動的で、いわば擬人化されています。さらに「ゆくへも知らぬ」の句は、散った梅の花の述語で、ここでは軽やかに自由に動くさまが描かれています。なほ、「ゆくへも知らぬ」は同時に「春風」をも修飾して、こちらも風の気ままな動きをほのめかしているようですね。人間の梅に寄せる思いは直接的には働いていません。梅の花も、それを乗せる春風も、自由な感じが伝わります。

なお「ゆくへも知らぬ」は、式子の和歌全てで6例あり、愛用した句のひとつです。この句は、恋歌では、恋の不安を詠うもので、内親王も他の和歌では、そのように詠っている和歌もありますが、ここでは、明らかに違います。式子が、歌により使い分けている、という柔軟性を示しているのです。内親王は、伝統墨守といった硬直した精神とは無関係なのです。

 この句の「梅の花」は分かりやすく砕けて言えば、魅力をふりまいて、軽やかに去っていく若い女性を髣髴とさせませんか。こういったからと言って、「エロじじい、セクハラだ!」と受け取らないで下さいね、念のため。