今回から、『古今和歌集』に詠まれた梅の和歌を取り上げたいと思います。

『万葉集』では、梅の花は第一に春が来たことを知らせる花であり、雪と見間違えるほど、白く清純で、しかも雪の降る頃に咲く力強さを秘めた花でもあることが、万葉人を惹きつけた、と記しました。また、梅は、当時の文化の先進国であった、中国から渡来したともいわれ、漢詩などで多く題材として好まれたため、愛でられたということも、梅がよく詠まれたとも言えます。


  この記事を書く前に、古今集の第一巻、春上にある梅の花を詠んだ歌に目を通しました。そこで、意外なことを知り、俗説を鵜のみにするという、よくある間違い犯さずに済みました。それは、平安時代以降、花と言えば、桜をさす、ということがまことしやかに言われますが、どうも、正確ではない、誤解を招いているように思います。どういうことかと言うと、春上には六十八首の歌があるのですが、そのうち第四十八番目までは、花を詠んだ歌の場合は梅の花で、かなりを占めます。第四十九歌からは、桜の花を詠んだ歌になるのですが、「桜花」とはっきり詠むか、桜を指していることが明瞭な歌となっています。それに梅の花を詠んでいる歌群には、逆に「花」とのみ詠んでいる歌も多々あります。例として素性法師の歌を挙げておきます。

  春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴くらむ
                                       春上 六 
《歌意》春になったので、梅の花と見るのだろうか。白雪がかかっている枝に鶯が鳴いている

 考えてみると、梅と桜では、咲く時期もかなり異なります。古今集の季節の歌の構成は時間軸に基づいており、春上の巻は、最初、初春、早春の季節を告げる代表的な花として、梅が取り上げられているのであり、春も盛りとなったことを表す花として、桜が登場してくるのだと思います。少なくとも、平安時代以降「花」と言えば「桜」というのは、言い過ぎ、誤解を招いていると僕は思います。確かに、花としての主役の地位は、桜に譲っているのかもしれませんが、梅に寄せる愛着、思いは変わらなかったのではないでしょうか。しかし、万葉集との違いで、一番顕著なことは、梅を愛でる詠み方が、その香、移り香にシフトしているのは確かです。

 こうは述べましたが、最初は、その例外といえる和歌をひとつご紹介します。

  雪降れば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきて折らまし
                     冬 三三七 紀友則
《歌意》雪が降ると、どの木にも白梅の花が咲いたように見える。これではどれを梅と区別して折ったらよいのか(分からない)

 前回の記事を読まれた方には、『万葉集』での雪と白梅を見間違える歌の伝統に基づくものとすぐに気づかれることでしょう。勿論、引用には、その狙いもありますが、それよりもっと面白い機知、文字遊びがこの和歌にあることを伝えるために挙げたのです。ヒントは「木ごとに」の詞にあります。もうお分かりでしょう、「梅」を二字に分けると「木」「毎(ごと)」になるということです。これは単なる文字遊びではなく、漢詩では離合詩と呼ばれ、漢字を分解して詠む技法を真似たものだそうです。こういう歌、遊び心があっていいですね。

 

 



 さて、本題に戻ります。まず、梅の香、移り香を面白く詠んだ歌を挙げましょう。

  折りつれば袖こそにほへ梅の花有りやここにうぐいすのなく
                                春上 三十二 よみ人知らず
《歌意》梅の花を折ったので、私の袖はその移り香でことにかおるのだ。この袖に梅の花があると思うのだろうか、鶯が来て鳴いている。

 鶯が人の袖を梅の木と勘違いし、あたりで鳴いているという趣向、ありえないことですが、実にユーモラスですね。当時、御召し物に香をたきしめる習慣があったことが、こういった着想の和歌を生んだのでしょう。次の梅の移り香を詠んだ歌も、薫物の習慣があったことを理解していないと、面白さがよく分からないかも知れません。

 

梅の花立ち寄りばかりありしより人の咎むる香にぞしみぬる
               春上 三十五 よみ人しらず 

 《歌意》梅の花咲くところに立ち寄ったばっかりに、誰かの香がしみこんでいる、他の女の移り香じゃないのと咎められてしまったことだ。

 こういう歌に接すると、こういった誤解が男女間に往々にしてあり、いつの時代も
男女の仲ははそんなに変わらないなあ、とつくづく思います。
 
今回、梅の香、移り香を詠んだ歌、面白味のあるものでしたが、次回は文学的高いものを味わうことにしましょう。