一か月ほど前、式子内親王の和歌をすべて読み通し、今、テーマを整理するために、二度目の読解を行っています。内親王の和歌の特徴として、第一に挙げられるのは、和歌の伝統を踏まえながらも、常套的表現や心情のありきたりな吐露を踏襲せず、独自で、先例のない詞や詞続きを追求して、式子ならではの詩的世界を生み出し、誰も模倣できないような詠み方をします(どうも上手く言語化できず申し訳ありません)。もう少し、具体的に述べると、当時、無常感を吐露する歌は多く、大体は、はかない人生を歎いたり、厭世的な気分を詠んだりするものでした。しかし、内親王の歌には、当然、無常観こそ底流にしているものの、単純に人生を歎いたり、憂き世を厭うような歌は見られないように思われます。今日、取り上げるのは、そうした点がよくうかがえる、式子らしい和歌です。

 草枕はかなくやどる露の上をたえだえみがくよひの稲妻

《歌意》草枕で旅寝をしていると、草の上にはかなく宿る
露に映って、とぎれとぎれに光って美しく輝く宵の稲妻よ。

 「草枕」は、夏目漱石が初期に著した名作の題名としても有名ですが、草を引き結んで枕とすることで、わびしい旅寝のことです。「はかなくやどる」は「露」を修飾し、一瞬にして消えそうな有様を表しています。この上句より、わびしい旅の設定となっていることあが分かりますが、旅ははかない人生の譬えでもあります。歌の主題は、無常の人生ということになります。
 
上句は、楽曲でいえば、主題の提示で、式子らしさは、下句に見られます。
「たえだえ」は、意味としては、とぎれとぎれに、ですが、奥野氏も「だんだん消えてゆきそうな心細さという主観性をもつ詞」と述べていることを留意してほしいと思います。なお、これは私見ですが、この「たえだえ」という詞は、式子のお気に入りの詞ではないか、と考えています、何故なら前にご紹介した内親王の代表的な名歌、

 山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水

でも用いられているからです。一瞬にして消え去るもの、といった思いが伝わる詞だからでしょうか。この歌では「たえだえみがく」となっており、解釈がちょっと難しいのですが、奥野氏によると、「今光ったかと思うと、しばらくして、また光って、稲光が露の上に映って美しく輝くさまを「露を磨く」と表現したもの」ということです。

 式子らしさは、この「たえだえみがく」という詞にあります。またまた奥野氏の評言をお借りしますが、まさに正鵠を射るものですので是非引用したいと存じます。

 式子も「たえだえみがく」と、その(私注:露と稲妻との)出会いをはかないながらも美しく肯定的に捉えているのである。無常の人生の中のはかないもの同士の出会いを、はかないながらに美しく見て、いとおしんでいるように見える表現である。

上の評言をかみしめるためにも、ひとつ補足説明しておきます(これも奥野氏のよるもの)。「如露亦如電」という仏教語があって、はかない露も一瞬にて消え去る稲妻も、共に因縁によって生じた、空なるものの譬えであり、和歌での露と稲妻の取り合わせには、この仏教的観念が背景にあるとのことです。

 いかがでしょうか。今回は、奥野陽子著『式子内親王集全釈』に頼り切ってしまいましたが、この評釈書なしでは、この和歌の独自性が理解できなかったと認めざるを得ません。この和歌には、観念にとらわれない、式子の自由な視点があると思われます。次回も、独自な似た和歌を取り上げる予定です。