前回は、ほととぎすに寄せる愛惜の念が強く感じられる和歌を取り上げました。
今回は、山ほととぎすが、夜半に目覚めたときの寂しい気持ちを察したかのように、一声鳴いてくれた、といった歌意の和歌をご紹介します。

  さびしくも夜半のね覚をむら雨に山郭公一声ぞとふ

《歌意》夜半に独り目を覚まし、寂しい気持ちでいると、村雨が降って、山ほととぎすが一声鳴き、訪ねてくれた。

 むら(村)雨は、にわか雨のことで、和歌では、ほととぎすとしばしば一緒に詠まれます。ここでは、寝覚(ねざめ)、むら雨(むらさめ)と韻を踏んでいて、音調が整っていることにもちょっと注目してください。夜半の寝覚めとほととぎすを取り合わせる和歌は、師の藤原俊成も詠んでいます。

 すぎぬるか夜はのねざめの時鳥こゑは枕にある心ちして 千載集 夏 一六五

 《歌意》もう朝になったのか。夜半に寝覚めに聞こえた時鳥の鳴き声が枕元で聞こえてきた心地がして

 夏の短か夜を詠みながら、夢心地で、恋の気分が漂っているような歌ですね。夜半の寝覚めと時鳥を組み合わせると、どうも恋の情趣が感じられますが、式子内親王もこうした詞続きを好んでいました。

 式子内親王の歌の眼目は、結句の「一声ぞとふ(訪ふ)」にあると僕は考えています。ほととぎすが一声鳴いたのを「訪ふ」と、擬人化して表現することで、夜半に寝覚めたときの寂しい気持ちを察し、慰めてくれた、という意味合いが色濃く出ているのでは、と思うわけです。なお、「ひと声ぞとふ」の詞は、小田氏(『式子内親王全歌新釈』)によると、唯一例のようです。

 最後に、この歌も、『源氏物語』幻巻中の和歌

 亡き人をしのぶるよひのむら雨にぬれて来つる山ほとゝぎす

を本説としている注釈書もあります。僕も『全釈』の奥野氏と同様、本説とまでは言えないと思いますが、いつも述べているように『源氏物語』を心の支えの書としているような内親王のことですから、この歌を意識していたことは十分に考えられます。