式子内親王の命日は、正治三年(1201)一月二十五日です。藤原定家が日記『明月記』に、

 一月十七日 早旦御所(注:大炊殿)二参ル、御悩(注:病状)只ダ同ジ事也。
 一月二十一日 只ダ同ジ事ナリト云々。

と記しているのが生前の最後の記録です。

 ところで、これまで触れて来なかったことがあります。病がひどく悪化し、死を意識した前斎院が、あの法然ー「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、仏教のあり方を大きく変革したーに、最後の対面と善知識の役割を果たしてくれるよう請うた、とする説が、研究者たちから以前出されていたことです。そのような文面を記したものは存在しませんが、法然の方には、高貴な女性「シヤウ如ハウ」宛の消息(手紙)があり、参上を丁重に断る旨のことが記されています。内親王の法名は「承如法」であり、「シヤウ如ハウ」には他の文書に「聖(しょう)如房」ないし「正如房」と漢字が当てられていたことから、そうした説が生まれたわけです。

 そして、その文面には、男女間の恋愛感情がうかがえるとし、さらに進めて式子内親王の忍恋の相手は法然だったと見なして、伝記を書いたのが、石丸晶子(『面影びとは法然 式子内親王伝』1989 朝日新聞社)です。僕も、式子内親王の伝記で最初に読んだのがこれで、その時は、大いに興味をそそられました。

 しかし、式子と法然のつながりを示す明確な史料、文書は一切なく、この石丸氏の見解は今退けられているようです。しかし、内親王の周囲の人脈からは、その可能性は完全に排除しきれません(例えば定家が仕えた九条兼実もその娘、宜秋門院任子も法然を戎師として出家しています)。ただ先の法然の手紙の相手が式子内親王であった可能性は高いと考えています。

 百人一首の名歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の恋の相手が法然であったら、どんなにかドラマティックなことか、と思わざるを得ませんが、現在では、「忍ぶ恋」の題詠であり、恋する男の立場で詠んだとする説が有力です。

式子内親王の命日から、思わぬ方向に話が及びました。前斎院ということもあり、神聖な内親王にも、真偽はともかく、こうした恋にからむエピソードがあることは、決してネガティブなことではないでしょう。