昨日、投稿の予定でしたが、お昼から、毎年楽しみにしている全国都道府県対抗駅伝を終わるまで観たため、 間に合わなくなってしまいました。駅伝の方は2区、注目の田中希実は予想通りの圧巻19人抜きで、正しく異次元の走りでした。彼女、無類の読書家であること、ご存じですか。ともかく、集中力が半端ではないのですね。もう一人の注目選手、9区の新谷仁美は、区間5位と彼女としては物足りない記録に終わってしまいました。一昨日は、雹、雪のなか(55分もの長い中断!)での大学ラグビー決勝、帝京大×明治大、両者とも、FW陣が超強力で、スクラム戦は意地の張り合い、久しぶりに興奮して観てしまいました。というわけで、この季節はどうも誘惑が多すぎて、いけません。
気分を取り直して、二人の哀傷歌を今日も続けます。
又、法性寺の墓所にて
思ひかね草の原とてわけ来ても心をくだく苔の下かな 俊成
《歌意》悲しさに堪えかねて、草の原の御墓をかき分けて来て、心を砕かんばかりの苔の下の御墓です
面影に聞くも悲しき草の原わけぬ袖さへ露ぞこぼるる 式子内親王
《歌意》面影に立ち、聞くのも悲しい草の原の御墓、そこをかき分けるわけでもないのに、袖さえ、露(涙)がこぼれます
二人の歌に共通する詞は、墓を意味する「草の原」です。この詞は、初めて接したとき、僕には正直なところ、魅力のない、平板な表現に思えました。しかし、この詞は、前々回で挙げた藤原俊成の有名な言葉、「源氏見ざる歌よみは遺恨の事也」を述べさせるきっかけを作った詞なのです。もう一度具体的に述べますと、『六百番歌合』の判者を務めていた俊成は、その判詞の中で、次のように述べています。
左(注:藤原良経の和歌を指して)、「何に残さん草の原」といへる、艶なるこそ侍るめれ。(中略)紫式部歌よみの程よりも、物かく筆は殊勝也。其の上花の宴の巻はことに艶なる物也
ここで特に注意したいのは、この判詞が書かれた年の二月に俊成は愛妻を亡くし、六月に哀傷歌は詠まれているという事実です。未だに歎きが尽きることなく、墓参をした俊成にとって、この「草の原」という詞がことのほか切実な言葉であったことが分かります。
ところで、『源氏物語』「花宴」巻で、「草の原」の詞を含む和歌を詠んだのは、誰だか御存じでしょうか。答えは、「朧月夜」です。「花宴」巻では、内裏で桜の宴が行われ、終わった後、ほろ酔い加減の光源氏は、弘徽殿に忍び込び、「朧月夜に似るものぞなき」と大江千里の和歌の一節を口ずさむ姫君と契りを交わします。姫君は名前を明かさず、次の和歌を詠むわけです。
うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ
〈不幸な私が、このまま名乗ることなく死んでも、あなたは草の原の御墓はどこかとを探し回って尋ねないのではないかと思います〉
ちなみに「朧月夜」は源氏の政敵、右大臣の六の君で、しかもこの時、東宮(後の朱雀帝で源氏の異母兄)に愛され、入内する予定でした。いわば、源氏にとって「朧月夜」は禁断の恋の相手だったわけです。
話がそれてしまいましたが、ともかく、哀傷歌を詠む俊成にとって、「草の原」なる詞は相当思い入れの強い詞であったことは間違いありません。式子内親王はそうした心に堪えかねるほどの歎きを深く察し、「草の原」と共に詠み、歌を返したのでしょう。
改めて申しますが、俊成はこの時、何と七十九歳(全然「枯れて」いませんね)、亡き妻、美福門院加賀(享年七十歳前後)も『源氏物語』のこの上ない愛読者であったこと、式子内親王は、女房をしていた俊成の娘を通じて「思ひがけず」御覧になって、計十一首もの歌を贈った結果、うまれた『源氏物語』を介する、これらの哀傷歌群は、和歌史の上でも大きな意味をもっていると僕は考えています。