前回、師である藤原俊成が、亡き愛妻への哀傷歌に答え、唱和するように式子内親王が計十一首もの歌を贈った、と書きました。今日は、その歌の内容に触れていきたいと思います。

 でも、その前に、藤原俊成について、言い足りない気がしますので、これだけは知っておきたいことを述べておきます。

 俊成は、定家の父ですが、どうも一般的には、息子の方が知名度が高く、より評価されているように思われます。今でも親しまれている『百人一首』の編者でもあるし、その和歌にも天才的な煌めきがあることからも、そのように思われることも当然かもしれません。しかし、和歌史上、革新的な『新古今和歌集』の世界や精神を導いたのは、俊成であり、とりわけ能でよく知られる芸術理念である「幽玄」なる元来漢語も、俊成が和歌を批評する際によく用いた語であり、歌論の中心をなす用語でした。

もうひとつ、俊成の『源氏物語』との関わりで、どうしても忘れてはならないのは、『六百番歌合』で判者を務めた際の次の判詞です。

  源氏見ざる歌よみは遺恨の事也

 『源氏物語』が歌人にとって、不可欠な素養と訴えたことは、『源氏物語』に限らず物語を和歌の創作に組み入れる点で、画期的な発言でした。内親王が『源氏物語』に親しむようになったのも、おそらく式子内親王の女房として仕えていた俊成の娘からであり、当然のなりゆきだったといえるでしょう。

 当時、歌壇の大御所であり、長老であった、79歳にもなる俊成が、亡き愛妻の死に、悲嘆にくれているわけです。そうした中で、高貴な身分である式子内親王が十一首もの歌を贈るという並々ならない事柄を、よくかみしめてほしいと存じます。

内親王の歌群に先立つ詞書によると、おそらく、俊成の書きつけていた挽歌を、娘が父には断らずに見せたようです。もし、それが事実なら、式子の贈答歌が、まったく儀礼的な性格のものではなく、強い意向が働いていたというべきで、事実とても気持のこもったものです。それらの歌を全部取り上げるのは、大変なので『源氏物語』が関わっているものだけを挙げることにします。なお、これらの歌群は、俊成の家集『長秋詠草』に収められています。

 山の末いかなる空のはてぞとも通ひてつぐる幻もがな    俊成

《歌意》はてしなく遠い山々の葉て、遥かな空の葉てに、亡き妻の魂があるのであっても、そこに行って私の嘆きを伝えてくれる、かの幻術士がいればいいのに

雲のはて波まをわけて幻もつたふばかりの歎きなるらん   式子内親王

《歌意》はるかな雲の葉て、遠い波間を分けて行って、かの幻術士も亡き奥方にお伝えするほどの深い歎きなのでしょう

この両歌の意味を理解するには、「幻」という詞について説明する必要があります。
まず『源氏物語』桐壺巻で、寵愛した更衣を亡くした桐壺帝が深い悲しみを詠った歌を 挙げます。
 
 尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂(たま)のありかをそこと知るべく

《歌意》亡くなった更衣の魂を尋ねに行ってくれる、かの幻術士がいたらいいのに。更衣の魂のありかがどこか知るために
  この帝の歌も、実は白居易の有名な長恨歌を下敷きにしています。「幻」は、玄宗皇帝の命で、亡き楊貴妃の魂を限りなく遠く果てしのないところまで尋ねて行った幻術士のことなのです。つまり、俊成の歌は、『源氏物語』の桐壺帝の歌を踏まえて詠まれているのですが、さらには長恨歌を踏まえているというわけです。『源氏物語』は、国風文化の一大成果のように思われていますが、実は、紫式部は物語の随所に、漢籍(特に白居易の漢詩)の教養をちりばめているのです(このことは、山本淳子氏の著書より学びました)

 式子内親王の初句と第二句「雲のはて波まをわけて」は、俊成の相当句「山の末いかなる空の葉て」に相和すかのように詠まれています。「波まをわけて」は、長恨歌の「海上に仙山有り」の詩句を意識しているのでしょう。「幻もつたふばかりの歎きなるらん」には、俊成の深い嘆きを長恨歌の玄宗皇帝の歎きと同等とみなして、いたわり慰めているようです。

 投稿は、これが今年最後です。拙い文章をお読みいただき、とても感謝しています。来年もよろしくお願いいたします。では、皆様、良いお年をお迎えください。