前回、式子内親王が、慣例や因習にとらわれることのない、極めて個性の強い女性ではあるものの、相手への深い心遣いに満ち、寄り添う姿勢をうかがわせる和歌を詠んだ、ということを述べました。今回から、師である藤原俊成が五十年近く連れ添った愛妻、美福門院加賀が亡き後、詠んだ哀傷歌九首に、式子内親王がそれぞれ一首づつ唱和し、その他二首を含む計十一首(この数だけでも異例だとお分かりになるでしょう)も贈ったという和歌を通じて、内親王の並々ならぬ厚情を追っていきたいと考えます。なお、いつも申しておりますが、僕は専門家でも学者でもありませんので、往々にして事実誤認や見当違いがあるかもしれません、その点を御承知おきください。

 さて、俊成を師としていた、とどの書でも書かれていますが、注意しておくことが有ります。それは、俊成が直接指導したのかどうかということです。僕はどうもそうではないと推察しています。というのも、式子の女房として仕えていた、俊成の娘たちを通じて、指導を行ったのではないか、と思われるからです。つまり式子の詠草を渡したり、詠むべき和歌書や物語(『伊勢物語』『源氏物語』など)を入手したり、歌書を書写したりしたのは、俊成の娘たちを含む女房たちであったということです。要は普通の師弟関係ではなかったということです。

 ここで、僕の知り得た範囲(わずかですが)で、俊成の人となりをごく簡単に触れたいと存じます。九十一歳と天寿をまっとうした俊成は、時に老獪な人物と評されているのですが、僕の印象では、とりわけ情に篤い人物とうつります。『平家物語』巻七「忠度都落」は俊成の厚情をうかがわせる有名な逸話です。俊成に師事した歌人としても才能ある平忠度は、平家一門が都落ちした際、俊成のもとを訪れ、勅撰和歌集に一首でも入集してくれるよう託した後、一の谷の戦いで戦死します。俊成は、その切なる望みを汲んで忠度の歌を一首「詠み人知らず」として勅撰和歌集『千載集』に載せたのです。
 なかなか、本題に戻れなくなって」しまいましたが、この情け深い人柄については、頭の片隅にでもとどめてほしいと思います。内親王にも当然、その人柄は伝わっていたに違いありませんし、これから述べることがより深く理解できると信じています。

 さて、俊成の愛妻、すなわち定家の母、美福門院加賀が亡くなったのは、建久四年で七十歳前後でした。式子内親王は四十五歳で、前年に父後白河院を失っています。俊成は七十九歳にもなっていました。亡き妻とは、五十年程前にいわゆる大恋愛(その仔細を書きたいところですが本題に戻れなくなる「危険」があるので割愛します)で結ばれます。加賀は『源氏物語』を愛読していたこともよく知られており、僕は二人の仲が、この物語を通じてより深まったのではないかと推察しています。

 季節が移っても、俊成の深い嘆きはおさまりません。その悲しみを歌にして六首書き付け、さらに墓参りに行った際に三首詠みました。それらの和歌を、女房として仕えていた娘が式子内親王に見せたようです。そうして、先に述べた十一首が出来、俊成に贈ったのです。内親王、前斎院という高貴な身分の女性が、たとえ師であっても、臣下の男性に贈るというのは極めて異例、普通にはありえないことだったでしょう。前年に父を亡くしている悲しみゆえに、なおさら俊成へのいたわりの念を深くしたのかもしれません。さらに俊成の亡き妻が、式子同様『源氏物語』の愛読者であったことも、全く他人事ではないと受けとめられたように僕には思われてなりません。

 
 今日一首読解する予定でしたが、「仕込み」が長くなってしまいました。今丁度、一年の締めくくり「有馬記念」のレースが始まりそうなので、ここで止めます。次回は木曜日に投稿するつもりです。いつも駄文で申し訳ありません、悪しからず。