今日は、12月最初の日曜日、僕にとっては見逃せないテレビ中継があります。すぐわかった方いますか。大学ラグビー対抗戦最終試合、早稲田大学対明治大学線が今日の午後あるのです。もうかれこれ何十年も(!)かかさず観ています。この試合を見終わると、ああ今年ももう少しで終わりだなと感じます。

 

 というわけで、いつも午後にブログ投稿記事を作成するのですが、試合が終わってからではとても無理なので、午前中から、準備しています。そのため、今日、本来は内親王の歌を取り上げる予定でしたが、変更して、京都旅行報告の続きといたします。ご了承ください。

 

 さて、伝・式子内親王の御墓にお参りした後、主に今出川通と堀川通を30分近く歩いて、櫟谷七野(いちいだにななの)神社に着きました。表通り(堀河通)から少し入ったところにあり、割と小さな神社だったので、ちょっと迷いました。住宅街の中にありました。境内には車も何台か駐車していました。立派な鹿の像がありました(後で調べると、この社は春日明神を祀っていて、鹿は神の使いとして大切にされているそうです)。本殿の前に階段があり、その横に、この地に斎院があったことを立証した、綿密な実証研究で知られる角田文衛による説明版がありました。斎院跡の顕彰碑は本殿の横に立っていました。残念ながら。周囲の光景からは、ここに斎院があったとは到底思えませんでした。でも神社で御朱印をいただきました。

 なお、葵債の時は、斎王代がこの神社にお参りするそうです。

 

 

 

 

 

 その後、堀川通を徒歩で北上しました。この辺りは紫野と呼ばれ、都の郊外であり緑豊かな地で貴族も行楽によく訪れたようです。1時間ほど歩いてようやく賀茂川にかかった御園橋の向こうに上賀茂神社のひと際目立つ朱色の鳥居が見えてきました。この辺りに来ると家並みも途切れ、開けてきて、比叡山などの山並みも眺望できます。空腹を覚えたので、神社にお参りする前に、鳥居前のお店で、焼きもちといもあんのおはぎを買い、外で食べました。

 

 上賀茂神社、正式名は賀茂別雷(かもわけいかづち)神社ですが、平安京遷都以前にすでにあった、京都で最も古い神社です。今は、世界文化遺産にも登録されている格式の高い神社にもかかわらず、お参りして、とても開放的な、市民にも親しまれている神社と感じました。一の鳥居をくぐると、参道の両脇は芝生となっており、寝

そべっている人々もいました。木立のあるところでは、ちょうど「上賀茂手づくり市」が開催されていました(毎月第4日曜)。食べもの、雑貨、古着などが並ぶフリーマーケットです。今は、七五三の時期で、着飾った小さな子供の可愛い姿が多く目につきました。さらにここでは結婚式もとり行われていて、その行列も見ものでした。当初はおごそかな、神々しい場所かなと思っていましたが、全然違って、市民の憩いの場と言ってよいかもしれません。境内には「ならの小川」と称される割と水量豊かな小川が流れています。内親王の和歌に御手洗川という名が出てくるのですが、この「ならの小川」を指すのかはわかりませんでした。本殿などの奥や周りは森林があり、起伏も結構あって、気持ちよく散策できます。紅葉はやはり小川の流れるところが一番きれいでした。小さな社があちこちに相当ありました(全部ちゃんと賽銭箱があるのです)。それから、ここにも階段坂に小規模な鳥居が次々と並ぶところがありました。木々の暗がりの中でその朱色が実に鮮やかでした。「手づくり市」も見て回り、神社境内で、こんなに楽しく気持ちよくのんびりと過ごせたのは初めてです。また十分に、内親王がいらした頃の信者の様子を想像し、偲ことができました。

 

 

 

 

 歩きに歩いてさすがに疲れましたが、京の都(の外)の大きさが実感でき、良かったです。一つだけ疑問がわきました。内親王は、上賀茂神社にどれくらいの頻度で、お参り(?)したのだろうかと、斎院跡から神社までは僕の足で優に一時間半ほどかかるのです。もちろん牛車のような乗り物に乗られたのでしょうが、それでも結構時間がかかったと思います。ほとんど外に出られることもなかった少女時代の内親王には大いなる楽しみだったような気がしてなりません。

 

 《追記》前回の記事で、神社に行く前に、紫式部の御墓に立ち寄ったことを書きましたが、無論、本当の御墓ではなく、現在の墓碑は明治初年に建立されたようだ、と、今月(12月号)、源氏物語を特集している『芸術新潮』にありました。ちなみに、京都市街には、夕顔の墓があること、御存じでしょうか。今回は行けませんでしたが次回(来年2月予定)の楽しみとします。

 

 

長々として、読みにくい文章、最後までご覧いただき感謝します。