以前の投稿で、斎院についていくらか触れました。でも、内親王の歌人としての成長を考えると、この少女時代は極めて重要な時期ですので、 重複を恐れずにまた述べることにします。

 

 式子内親王は、数え年で11歳の時、賀茂の斎院に、卜定(ぼくじょう)されています。卜定とは、候補となる未婚の皇女の中から、亀の甲羅を用いた占いにより、新たな斎王(伊勢の斎宮と賀茂の斎院を併せての名称)を選ぶことです。では、そもそも斎王(斎宮、斎院)とは? と疑問に思う方がほとんどかもしれません。現在はその制度はとうになくなっていますからね。よりよく理解するには、まず伊勢の斎宮ができる端緒から、述べなくてはならないのですが、それから始めると、こちらが伝えたいテーマになかなか行きつかないので、伊勢の斎宮については、Wikipediaか、または中公新書『斎宮ー伊勢斎王たちの生きた古代史』 (2017)(この書は、歴代の斎宮の素顔について興味深く述べていますを)をご覧になってください。要は、斎宮は、天皇の代理として、伊勢神社に付随する宮で、斎院は平安京を鎮護する神を祀る賀茂神社(下鴨神社と上賀茂神社)に付随する院で、神に奉仕する役割をになっていることです。斎宮が、天皇の代替わりごとに、代わるのに対して、斎院は数代にわたって任を果たすことがありました。式子内親王も、二条天皇の即位の際、任につきましたが、計三代、十年近く務めています。「大斎院」と称されている選子内親王(村上天皇皇女 964-1035)は、なんと五代にわたり、在任五十七年もの長期に及んでいます。ちなみに、大きな役目として賀茂祭の祭主をつとめますが、現在の葵祭のヒロインである斎王代が、斎王の代理ということはよく理解できますね。

 

 式子内親王の恋歌の相手が、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われるという専修念仏の教えを説いた、日本仏教史上、偉大な存在である法然だとし、話題を呼んだ石丸晶子著『式子内親王伝—面影びとは法然』(朝日新聞社、1989)では、斎院時代を「白い歳月」として、「前途に何の希望もない(神への)ご奉仕の生活」を過ごしたとしていますが、この見方には、まったく同意できません。石丸氏は、賀茂の斎院が神に奉仕するだけの、単調で閉鎖的な空間とする先入観があったように思われます。十代をほぼ過ごした斎院時代の日々は、その後、悲運な生涯を送った内親王にとって、和歌の道に打ち込める環境に恵まれた、唯一幸運な時代であり、歌人としての一生を決めた重要な時期でもあったと考えられるからです。僕がこう考える理由として、当時の賀茂の斎院とはどんなところであったか、まず述べる必要があります。ここから先は、以前に書いた文章を掲げますので、文体が異なること、ご了承願います。

 

 賀茂の初代斎院は、能筆家としても知られる嵯峨天皇(786-842)の皇女、有智子(うちこ)内親王で、当時最高の教養とされた漢詩文に通じており、自らも漢詩を作り、その才能を、父帝からも愛でられた。当然、斎院に仕える女房も、高度な教養を備えた者が集まった。斎院の女房は、身の回りの世話だけでなく、娯楽のお相手や家庭教師の役割も担ったわけである。紫式部も清少納言も、後宮の女房だったことを思い起こしていただきたい。こうして、賀茂の斎院は成立初期にして、平安中期に花開く斎院文芸サロンの先駆けをなした。その文芸サロンとして最盛期を誇ったのが、先にふれた「大斎院」選子内親王の斎院時代であった。この大斎院の時には、古典の書写や収集を行う「歌司」や「物語司」も置かれていた。また別の斎院の時には、約十五回もの歌合が催されていたという。こうした事実からも、斎院が、宮廷、後宮と並び立つ、文化の拠点になっていたと言えよう。
 
賀茂の斎院が、平安京の郊外にあり、都の中心からも割と近く、美しい自然にも恵まれ、都の貴族たちも訪れる風雅な場所であり、決して閉鎖的な空間ではなかったようである。意外にも外部との交流も盛んであったのである。式子内親王が斎院であった時にも、式子と親戚関係にある貴族の家集によると、都の貴族たちが、斎院御所に花見に参上し、斎院女房たちと贈答歌を交わしただけでなく、夜更けまで、詩歌管弦に興じて時を過ごしたという。貴族が帰った際、女房たちは、恨み言を戯れに詠み、それに家集の作者が返歌した。この記事からも、斎院の女房たちにも自由闊達な雰囲気があったことが感じ取れよう。この貴族と女房たちのやり取りの外に、女房同士の歌の贈答もある。壇ノ浦で死した恋人、平資盛(すけもり)との追憶の日々が描かれていることで有名な『建礼門院右京大夫集』によると、その作者がごく若い頃、「中将君」と称される斎院女房が桜の枝を添えてきた際に、歌の贈答を交わしている。だがこれで話は終わらない。この女房は、平重盛の子清経と恋愛関係にあったが、何とこの平家の貴公子は、斎院の別の女房に心を移していたというのだ。このことからも、斎院の女房たちが、貴族たちと交流し、恋愛関係にも発展することを許容するような雰囲気があったことが分かろう。

 斎院女房の中には、勅撰集『千載(せんざい)集』や、当時の歌壇を牽引していた藤原清輔の私撰集『続詞花(しょくしか)和歌集』などに入集するほどの実力のある歌人もいた。なかでも注目すべきは、その中に、清輔亡き後歌壇の大御所となった藤原俊成([歌道読み]しゅんぜい)の娘がいたことである。俊成は式子内親王の歌の師とされるが、具体的にどう指導したかは記録に残っていないようである。斎院時代は、おそらく式子に仕えていた娘を通して、和歌の道に導いたのであろう。当時、和歌を詠むには、『伊勢物語』『源氏物語』、『万葉集』『古今和歌集』など日本の古典だけでなく、中国の漢詩文にも通じることが必須だったが、式子の詠んだ和歌にも、そういった古典に相当親しんでいたことがうかがわれる。また、女房たちと琵琶や琴などの合奏を楽しんだことをうかがわせる歌の贈答があることも、内親王が女房たちと楽しいひとときを過ごしたことがうかがえる。

 

 どうですか。当時の斎院の雰囲気がいくらか伝わりましたか。特に仕える女房も教養があり、勅撰和歌集に入集される実力のある者がいたことは、注目すべきです。平安期の女房については、山本淳子著『平安人の心で源氏物語を読む』(朝日新聞出版、2014)、『枕草子のたくらみ』(同、2017)などを読むと女房のリアルな姿が活写されています。この著者は『源氏物語』や『枕草子』を読むうえでも必読でしょう。当時の周辺事情にも詳しく、歯切れがよく、とても面白く読めます。ぜひ御手に取ってください。