こんにちは
遠藤みさ子です
庭の木、ぽちぽち、、、咲き始めました
学べば幸せになれる
知れば答えに導かれる
誰かの成功は私にもやってくる
方法を学んだ
私が苦しんでいる人を救う
そう信じて、思って実践しました
そう言う考えが
当たり前となっていました
見えないゴールに
言い訳や
理由を付けて
目指しては
一喜一憂し、酔いしれていました
九八さんのブログより
『分かった自分、知っている自分と言う「我見」が、随所に出て来る訳です。
それが「観念化した自分」だと言う事に、気付けない訳です。
何かを「得た」と言う、『架空の自己』の、満足感は、、、、
やがて、貪り・瞋り・愚痴と言う、
愚かな「餓鬼の姿」と成る訳です。』
それが「観念化した自分」だと言う事に、気付けない訳です。
何かを「得た」と言う、『架空の自己』の、満足感は、、、、
やがて、貪り・瞋り・愚痴と言う、
愚かな「餓鬼の姿」と成る訳です。』
『餓鬼の姿』
説明、解説、欲、、、
『自分』に
酔いしれていて、気づかないわけですね
いつも
でも、だって
あの時、
やっぱり、
この時代だから
意味を前提に置いて、説明し
理解して、
都合の良い答えを納得し
自己満足の繰り返し
目前の事実は
脇に置いて
常に『自・他』の
二つに分かれた
何かと戦っていますね
それが苦しみだと気付かずに
考え方や都合でグルグル戦いっぱなしです
九八さん、ゆみさんの
『妙法』に触れて
これだと信じていた事は
『観念化した自分』だったと
目が覚めました
それに気づくと
サランラップがハラハラとはがれ
重たいイカダを
棄てて、棄てて、、、
空っぽになって、、、
あれれ??
目前の様子は
静寂で、そのものの姿でしかなくて
ほんとだぁ
元々、救われていたんだ
これのみだわ
実感しました
あれも、これも、こんな事までも
考え方だったとはと
ゾッとするほどに気付かされます
縛られていた考え方から脱却し
自由で
穏やかで
不動でしか無くなっている
戦う何かなんて
どこにもなかったですね
何も分かれていない
一体の活動そのもの
事実がこんなにもありがたい
ありがたや〜
ただただ実感です
本当に考え方は
どこまでも考え方でしかないですよ
『餓鬼の姿』からの脱却
サランラップをはがし
イカダを棄てるお話し
『妙法』とのご縁が
きっかけとなりますようにと
願うばかりです
どうぞセッションや
お話し会に参加してみて下さいね!
よろしくお願いします
読んで頂きありがとうございます。
ありがとうございました
えんちゃんのセッション
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