日本を横断するコースとは言え
勢力的にはかなり弱そうだったので
少し軽く見ていた
こんなにも大きな被害が出るとは
栃木県、茨城県を中心とした関東地方から
東北地方にかけての豪雨被害
関東に住むフォロワーさんが
一斉に
「すごい雨」
「雨がはんぱない」
「家の前の道路が浸水している…」
とつぶやいていた
広範囲に渡って雨の影響が出ているようだった
「近所の堤防を川の水が越えた」
とのメッセージが入る
その後、自宅待機から、早いタイミングで避難を行ったようで
ご自身、ご家族にケガなどはなかった様子
ひとまず胸をなでおろした
鬼怒川が氾濫し、堤防が決壊
以前、私も訪れたことのある土地で
うっすらと記憶に残っていた場所だったが
画面に映るそこは、記憶の中の風景とはまるっきり違っていた
一面茶色の濁り水に浸かった世界
激しい流れに、堤は削られ
家屋が流されていく…
ここまでの事態になろうとは…
恐らく住民の方も想像していたなかったかも知れない
多くの人が自宅に残り
1階が完全に水に浸かり、身動き取れずに
ある家族は2階に上り
ある家族は屋根に逃れ
助けを待つ映像が次々に映し出されていた
豪雨からの
洪水
そして、川の氾濫
決壊
22年前
平成5年(1993年)
鹿児島を襲った「8・6水害」を思い出す
あの時も
鹿児島県内は大きな被害に遭った
鹿児島市内を流れる甲突川が氾濫し
床下、床上浸水
家屋の倒壊などがあった
江戸時代に甲突川に架けられ
シンボルとなっていた5つの石橋のうち
2つの橋が流失した
錦江湾と急峻な山との間の海岸沿いを走る
JR日豊本線と国道10号線が
土石流によって塞がれた
駅に停まっていた電車と
豪雨による渋滞で立ち往生していた多くの車が
土石流に覆われ、流された
その日、鹿児島市内から実家(溝辺町)に帰るために
JR日豊本線に乗った私は
電車1本の差で
その土石流から免れた
今勤めている会社は
甲突川からほど近い場所にあるため
1階(胸のあたりまで)が水に浸かったらしい
先輩方は大事な書類や
当時数台しかなかったパソコンを
必至でデスクや
ロッカーの上にあげたそうだ
今でも建物の壁に跡が残り
当時の水位を教えてくれる
繁華街・天文館も広い範囲が浸水し
地下の店は水没した
水が引いた後も
JR日豊本線、国道10号が復旧するまで時間がかかったため
しばらくは代替バスで鹿児島市内へ通学した
時には、鹿児島市から鹿児島湾奥にある加治木港まで
漁船に乗って帰ったこともある
大変だったのは
ライフラインだ
私は当時実家に住んでおり
実家周辺は特に大きな被害はなかったのだが
鹿児島市内は
電気やガスが復旧するのに時間がかかった
特に8月、真夏の時期に断水が続いたのは辛かったようだ
大量の水によって引き起こされた災害なのに
その災害によって水が得られなくなるとは
非常に皮肉なものだ
今回の鬼怒川を始めとする水害でも
断水となっている地域が広くあるようだ
一刻も早くライフラインの復旧が望まれる
8・6水害も大変だったが
甲突川と鬼怒川では
その水量、流域面積
川として規模がまるっきり違う
今回の水害は、あまりに程度が大きすぎて
その全容が想像すらできない
私の大切な仲間も
被害に遭った
浸水などの程度はまだ判らないし
損害がどのくらいになるのか想像ができない
心的ダメージも大きいだろう
遠く離れた太陽の下で、ネットやテレビ越しに傍観していただけの私には
到底想像できない痛みだ
しかし、不謹慎かもしれないけれど
まずは命が助かってよかった
ケガがなくてよかった
濁流に呑まれ
亡くなられた方
未だ行方不明の方もいらっしゃる
そんな中
的確な判断で
早めの避難をされたこと
その行動があったからこそだと思う
その時
どう行動するか
そして
その時に備えて
何をしておくべきか
改めて考えさせられた