自分では飽きっぽいつもりはないんですが、自然と見る動画が移り変わっていったりします。最近は、原口一博さんの配信を全く見なくなっていて、代わりに長谷川ういこさんの配信を見るようになりました。毎金ういこ?と言っているので、週一なのかな。

 

長谷川さんは、既存の職業のイメージに当てはまらない感じが独特ですね。学者にしてはフレッシュすぎるし、活動家にしては柔軟すぎる。政治家なら、一番ぴったりくるかもしれませんが、当選してないので、政治家とも言えない。

 

そして積極財政を掲げてくれているので、ポジション的にも特異な位置にいるのかもしれません。

 

ゲゼルとかポランニーの研究者ということだったら、変わった人の研究をする人もいていいね、という程度になるんですが、緊縮財政の弊害が実際に出ていて、何か手を打つ必要がある状況が目の前にある時(それはひとつの見方にすぎないとも言えますが)、長谷川さんは日本で積極財政を実施していく時の、重要な人材ということになるでしょう。

 

僕の考えでは、緊縮財政の弊害があらわになっているという見方が成立するのは、日本に作用している文化的衝動の中で、広く人々に富を分かち合う考え方が低調であることが背景にあるからだと思います。

 

一番強く存在する文化は、血を分けた肉親に対する愛で、これが家族主義や民族主義を形成しています。つまり身内は優遇するが、余所者のことは関知しないという態度です。では、家族や国家の保護から漏れる人は、誰にかばってもらえばいいんでしょうか。そこにアプローチするのは、勢力拡大を目指す新興宗教の団体だけかもしれません。

 

あるいは例外的に、人道的な援助活動をしているNPO等が存在するかもしれませんが、こうしたものを下支えする思想(博愛主義や人類愛)が、一部の人にしかわけ持たれていないために、広がりを欠いたものとなり、力が弱いものとなっています。

 

経済が好調な時は、縁者に恵まれない人にもおこぼれがある程度行っていたかもしれませんが、厳しくなると、身内の利益を確保するために、余所者に対する施しは極端なまでに絞られる、そんな状況じゃないでしょうか。

 

それだと、困窮者が救われないということもありますが、需要不足になり、取引の連鎖が途切れる傾向も出てきます。

 

そこで所得の再分配の考え方なり、積極財政の考え方が、一部の人たちが富を囲い込んで他に渡さない状況を、是正するきっかけになるとの期待が出てくるわけです。

 

従来の考え方によるなら、助けるべきは(傷ついて病気になってしまった等の)何かの点で破壊されてしまったような貧困者ではなくて、頑張って働いているのに報酬が十分に得られない中間層だ、ということにもなってきます。放蕩にふけらずに、家族のために頑張って働くことが、古い時代の個人の理想像だったからです。

 

多くの人が古い考え方から一歩も出られずに、惰性で続く今の流れを変えられなければ、仮に緊縮財政の害とみなしているものが、いつまでも解消されずに残ることになります。説得を試みる側では、縁のあるなしを問わず、苦しんでいる人のことをちゃんと見て、助けましょうよ、と呼びかけることをひとつの方向性としてやっており、またもうひとつの方向性として、広く人々に可処分所得を配らないと、需要がやせ細って、経済全体に悪影響を及ぼすという、経済学的な説明を試みています。

 

一般の人は、自分が慣れ親しんだ考え方から一歩も出られないという問題を抱えていることが多いかもしれません。一方で、知識人の場合は、既存の主流派経済学の理屈を覚えていて、それを基準に考えるので、違う理屈を言われても受け付けないという問題があるようです。

 

理屈としては、流れるように一連の理屈が成り立っているのでしょう。貨幣をむやみに増やすと、インフレになって、通貨の価値が下がり、市場の信任が得られなくなれば、国債の買い手がいなくなり、通貨の暴落が起こる、みたいな。

 

理屈としては、一連の流れがきれいにまとまっているのかもしれません。しかし問題はそれが、実体経済と一致しているのかどうかという点です。

 

長谷川さんは、通貨の信任という概念は、全くのナンセンスと言ってました。何を指しているのか曖昧で、そんなことを言っても、何も指摘したことにはならない、ということのようです。景気という概念も、似たようなものかもしれません。好調だな、不調だな、という感覚は人が感じるものだと思いますが、良いところに目を向ければ好調なように見えるし、悪いところに目を向ければ不調に見える。それに短い期間でも、移り変わっていくものなので、好調だ不調だと言って何か意味があるのかはわかりません。

 

既存の主流派経済学の学説を、公式のようにして覚えている人は、それに反するアイデアを受け入れてくれませんが、どうすれば分かってもらえるのかというと、基本的には、自分の立場はしばらくの間脇に置いて、相手が言っていることをわかろうとする、そんな態度を持てるかどうか、にかかっていると思われます。

 

そしてもうひとつ言うなら、貨幣とは何か、ということについて、一回、根本的に考えてみてほしい、ということを言えばいいかもしれません。

 

借金は返すのが当たり前だ、だって自分が貸したお金が返ってこなかったら困るもの、という理解でいると、何百年も借金が残り続けることは果たして良いことなのかとか、天文学的な負債を抱えた人がそれを返せるわけがないのだから、借金を帳消しにするしかない、というようなことが、理解できないでしょう。

 

これについては、お金ではなくて、野菜などの食料について考えたらわかりやすいかもしれません。農家の場合、野菜は自分で食べる以外は、市場に出してお金にしようとします。できるだけ沢山、お金に替えたいので、沢山売ろうとしますが、あまり沢山取れすぎると、価格が安くなってしまうので、場合によっては収穫せずに、畑にすき込んでしまうこともあるようです。

 

つまり、市場に出す分を限って、残りを廃棄しているわけです。廃棄するのだから、もったいなくて、近所の人には欲しいだけあげてしまうかもしれません。

 

一部は売る、一部は廃棄、一部は贈与となっています。もらった人は得をして、あげた側は損をしていますし、市場で買った人も損をしているように見えます。しかし、完全に公平にはできないので、そうやって売れる時には売り、余ればあげたり捨てたりする、ということに、この世の中はなっているんじゃないでしょうか。

 

借金についても、基本は返さないと相手が困るわけですから返します。でもどうしても返せない時に、死んで保険金で返せ、みたいなことまでやる必要があるのか。破産管財人のような制度は、悪人がした不始末に帳尻をつける、特別な仕事なのではなくて、事業がうまくいかなかった時の(それはそんなにレアな出来事ではない)常に必要な仕事なのではないかなと思います。

 

お金の発行の仕組みを考えても、全く新たに発行しないで、今流通しているものでやっていこうとすると、タンス預金をする人がいたら、その分だけ流通するお金が減ってしまって、取引の連鎖が途切れてしまうんじゃないでしょうか。

 

市場に投入せずに長期にわたりお金を取っておく人もいるだろうし、利己主義的になって、自分のためにしかお金を使わない、あるいは利殖を目指して投機的に資金を運用する、そういう人もいるでしょう。

 

要は、利己主義的にお金を扱う人がいるせいで、経済循環が歪められるので、その弊害を誰かが何かの方法で修正しなければならない、ということではないかと思います。

 

こういう全体を調整する観点に立つと、個人が、自分の稼いだお金は、その権利は、絶対に目減りしてはならず、いつまでも使えるようになっているはずだ、という考えを持っていても、全体を調整するためには、その通りにならないことがありうるでしょうし、誰も操作的なことをしなくても、自然と円安になったり円高になったり、インフレになったりして、お金の価値は変わっていきます。

 

自分が持っている野菜の価値のように、お金の価値も流動的なのだと考えた方がいいのかもしれません。(今の制度では)野菜ほど、劣化が激しくはないとは思いますが。