私は大の鶏肉好きです。
会社の目の前にファミマがあるのですが、毎日1本、終業後にプレミアムチキンを買って、外のごみ箱の横でボーーーーッとしながらモシャモシャやるのが日課になっています。
今日もそのつもりでファミマに入ろうとすると・・・、
むむむ!?
私の特等席のごみ箱の横に、何だかヒップホップ系の兄ちゃんが、脚を拡げて得意げに立ってます。
「ちっ、邪魔だな
」
と思いながらも、とりあえずプレミアムチキンを買い、雨も降ってましたので、その兄ちゃんの横で、小さくなって、くつろごうかと思っていたら、目の前に傘を差したこぎれいなお姉さま。どう見ても私の知人ではありません。
彼女はその兄ちゃんに声を掛けました。
お姉さま 「久しぶり~!
」
兄ちゃん 「日本だよ、久しぶりだよ!
」
お姉さま 「日本だねー!元気しよった?」(と、いきなり方言混じる。海外で知り合いになったようだ。)
兄ちゃん 「してたよー、全然変わってなかなー
」
お姉さま 「人の事言えんって、変わってなかよー
」
兄ちゃん 「じゃ、行くか!」
お姉さま 「うん!
」
と二人雨の中に走っていきました。
耳はダンボのようになっていたと思うのですが、何食わぬふりをして鶏の骨をしゃぶっているふりをしながら、動きの停まっていた私は、大変懐かしい気持ちになりました。
久しぶりの友人に逢う事って、こういう事だったんじゃないのかな?
私はFacebookやLINEを否定しません。あれはあれで、知人を探したり、見知らぬ人と知り合いになったり、果ては安否確認の時にまで役に立ちましたから、素晴らしいツールだと思います。
ただ、あれのお蔭で、人に出逢う感動が薄れてきてしまっているのではないかなと思っています。久しぶりの知人と繋がった時、「おー!」と感動しますが、その繋がりがインターネットという線の上で切れないため、何となく感動が薄れていきます。それも急速に。間が空きすぎると「逢う」という行為もしなくなってしまいます。「Facebookで繋がってるからいいや」と逢う事への甘えが起きてしまっているのではないかと思っています。
繋がりを断ってはならないのはビジネスのシーンです。お客様との関係は何がしかの形で繋いでおかないと、逆に「失礼」にあたってしまいます。その為のツールとしてはソーシャルメディアは大変秀逸だと思います。
それは友情や愛情に適用させるべきことなんでしょうか?常に繋がっていないとならない理由は何なのでしょうか?かえって知らない事や見えてない事があるべきなのではないかと思います。何時に起きて、昼は何を食い、夜はどこで飲み、誰とどんなセルフィ撮って、休みの日はどこに行ったのか、そんなことは別にどうでもいいと思います。そこまで知る必要はないと思います。
私には前妻に今年で20歳になる娘がいます。彼女とはもう数年逢ってません。彼女がFacebookをやっていることは知っています。
でも友達申請したいと思いません。
お互いは何がしか見えないもので繋がっているし、相手に対して愛情もあれば、相手の愛情も解ります。それをあえて確認する作業は、私は「悪」だと思います。
繰り返します。ソーシャルメディアそのものは大変優れたツールです。
ただ、私にはビジネスか、エンターテイメントか、もしくは私のように自分の考えを不特定多数に知らしめるためのツールか、どれかで使われるべきものじゃないかなと、思います。
皆さんも、「何のために使っているのか?」をもう一度見直した方が良いと思います。
人との繋がりは100あれば100通りあります。全てをソーシャルメディアで束ねてしまうべきものではないと、私は思います。
(鳥取県北栄町役場前の図書館入口だそうです。「名探偵コナン」の作者、青山剛昌さんの出身地、この像もご本人がデザインした工藤新一だそうです。)
会社の目の前にファミマがあるのですが、毎日1本、終業後にプレミアムチキンを買って、外のごみ箱の横でボーーーーッとしながらモシャモシャやるのが日課になっています。
今日もそのつもりでファミマに入ろうとすると・・・、
むむむ!?
私の特等席のごみ箱の横に、何だかヒップホップ系の兄ちゃんが、脚を拡げて得意げに立ってます。
「ちっ、邪魔だな
」と思いながらも、とりあえずプレミアムチキンを買い、雨も降ってましたので、その兄ちゃんの横で、小さくなって、くつろごうかと思っていたら、目の前に傘を差したこぎれいなお姉さま。どう見ても私の知人ではありません。
彼女はその兄ちゃんに声を掛けました。
お姉さま 「久しぶり~!
」兄ちゃん 「日本だよ、久しぶりだよ!
」お姉さま 「日本だねー!元気しよった?」(と、いきなり方言混じる。海外で知り合いになったようだ。)
兄ちゃん 「してたよー、全然変わってなかなー
」お姉さま 「人の事言えんって、変わってなかよー
」兄ちゃん 「じゃ、行くか!」
お姉さま 「うん!
」と二人雨の中に走っていきました。
耳はダンボのようになっていたと思うのですが、何食わぬふりをして鶏の骨をしゃぶっているふりをしながら、動きの停まっていた私は、大変懐かしい気持ちになりました。
久しぶりの友人に逢う事って、こういう事だったんじゃないのかな?
私はFacebookやLINEを否定しません。あれはあれで、知人を探したり、見知らぬ人と知り合いになったり、果ては安否確認の時にまで役に立ちましたから、素晴らしいツールだと思います。
ただ、あれのお蔭で、人に出逢う感動が薄れてきてしまっているのではないかなと思っています。久しぶりの知人と繋がった時、「おー!」と感動しますが、その繋がりがインターネットという線の上で切れないため、何となく感動が薄れていきます。それも急速に。間が空きすぎると「逢う」という行為もしなくなってしまいます。「Facebookで繋がってるからいいや」と逢う事への甘えが起きてしまっているのではないかと思っています。
繋がりを断ってはならないのはビジネスのシーンです。お客様との関係は何がしかの形で繋いでおかないと、逆に「失礼」にあたってしまいます。その為のツールとしてはソーシャルメディアは大変秀逸だと思います。
それは友情や愛情に適用させるべきことなんでしょうか?常に繋がっていないとならない理由は何なのでしょうか?かえって知らない事や見えてない事があるべきなのではないかと思います。何時に起きて、昼は何を食い、夜はどこで飲み、誰とどんなセルフィ撮って、休みの日はどこに行ったのか、そんなことは別にどうでもいいと思います。そこまで知る必要はないと思います。
私には前妻に今年で20歳になる娘がいます。彼女とはもう数年逢ってません。彼女がFacebookをやっていることは知っています。
でも友達申請したいと思いません。
お互いは何がしか見えないもので繋がっているし、相手に対して愛情もあれば、相手の愛情も解ります。それをあえて確認する作業は、私は「悪」だと思います。
繰り返します。ソーシャルメディアそのものは大変優れたツールです。
ただ、私にはビジネスか、エンターテイメントか、もしくは私のように自分の考えを不特定多数に知らしめるためのツールか、どれかで使われるべきものじゃないかなと、思います。
皆さんも、「何のために使っているのか?」をもう一度見直した方が良いと思います。
人との繋がりは100あれば100通りあります。全てをソーシャルメディアで束ねてしまうべきものではないと、私は思います。
(鳥取県北栄町役場前の図書館入口だそうです。「名探偵コナン」の作者、青山剛昌さんの出身地、この像もご本人がデザインした工藤新一だそうです。)

