空は嫌いだ
特に月がくっきり見える夜の空は
東京生まれ。東京育ち。生まれてからこの方見続けてきた空は、薄靄がかかる気味の悪い色をしていた。
鳴り止むことのない喧騒。まとわりつくような生ぬるい空気は、夏も終わろうとしているのにまだそこにあった。
地表を覆い尽くし次のターゲットを空へと定めた超高層ビルは、瞬く間に空を不自然な陰で蝕んでいく。
光を、より明るい場所を目指し、天へと歩みを進め始めたのは、人の必然だろうか。
星になった鳥の物語を書いたのは誰だったか。
空を見上げなくなってから、もうどれくらいたったろう
「今日はずっと雨?」
「夜には晴れるってさ」
「…そう。」
このまま降り続ければいいのに。確か今日は満月だ。
「このあとどうする?」
「今日はもう帰る」
「あ…えと…そっか。ん。分かった」
「ごめんね。せっかく誘ってくれたのに。」
「いや、いいんだ。気分が乗らない日だってあるさ。」
全部この汚い空気のせいだ。きっと悪い空気は下に溜まるんだ。
月はきっととても澄んだ世界にあって、私はきっとずっとこの街から抜け出せない。
今日はいつもと違う日になるはずだったのに。
二十歳を迎えるこの日は、特別であるはずなのに。
この雨がいつまでも降り止まないで、この街を洗い流してくれればいいのに。
さよならを告げて、ありがとうを伝え忘れたことに気が付いたのは、もう彼が見えなくなったあとだった。
予報に反して降り止まない雨に傘を投げ出して、私は泣きたくなって、声を上げて泣くやり方も忘れてしまった自分の肩を抱いて、汚くなった自分の手を見つめて、つまるところ私は澄んだ月になれなくて、泣いていた。
「酷い顔。」
私を突然呼び止めた声は優しく暖かかった。
「なぁ、俺はうまく空を飛べないんだ。」
いつの間に雨は止んだのだろう。月明かりが街に落ちていた。
何万とある人工光は闇を照らしはしたが、それだけだった。
本当に必要なのは、そう、きっと─────
「月までは届かないかも知れない。お前を救ってやれはしないかも知れない。それでも、手を伸ばせば掴んでやる。掴んだら離さねぇって、それだけは約束できる。」
「可笑しな人。それって強気なの?弱気なの?」
そう言ってあなたに差し出した手を、汚れた手を、あなたは躊躇わず強く掴んだ。
階段を駆け登る。
一段とばし、三段とばしで駆け登る。
淀んだ空気はもうたくさんだ。
勢い良く明け放ったドアの先には
「思ったより、空は近いね」
繋いだ手を、繋がった私たちを、もう離さない。
「ねぇ、知ってる?月は一人じゃ光れないんだってさ。」
「それなのに、太陽がいれば、あんなに明るく光るんだ。」
「ねぇ、それって強気なの?弱気なの?」
「一番よわっちい優しさ。きっとね。」
fin
『月は繋がる』