前に、生まれ変わりについて書いた時に、魂の状態や性質によって、あの世への向かい方に、いくつかのパターンがあると書きました。
肉体の人生を終えると、魂は本質性の強い世界に向かいますが、本質世界での魂は、それぞれの性質や能力により世界が違います。


本質世界は、物質世界よりも自由なので、そこでの魂も自由ですが、表面世界に物理的法則などがあるように、本質世界にも物質性の強い範囲では、ある程度の形式(ルール)が決まっています。


霊界というのは、本質世界でも割と物質性の強い世界です。
自我の強い人間的な魂のいる世界です。
そこにも天使や神様はいますが、そこよりも、さらに大きな本質世界があります。


本質性の強い人は、魂と本質世界の分別がなく、魂という自我がないようにも思えますが、人体があれば、魂みたいな自我を持つ意識の主体が普通はあります。
私の言う、魂とは、人の自我意識の主体のようなもので、霊界から来た魂(霊魂)とは、少し性質が違います。
霊界よりも本質性の強い世界から来ている意識体です。
そちらは、死後の世界というよりも、死や生という分別を超越した世界です。
そこで肉体を持って存在できませんが、人間も心を通じて、ある程度はアクセスできます。
それは、「一種の霊感」ですが、霊能者の霊感とは方向性が違います。
霊界よりも本質性の強い世界に、直接的、または間接的に繋がる感受性です。
霊や霊界を通さずに、さらに本質性の強い世界を把握する力が、その「一種の霊感」なのです。
これを持つ者は、物事の本質性(真理)を把握したり、肉体的性質によっては、創造的になり、クリエイティヴな活動に結び付きます。
人間社会的には、本質的な共感力やテレパシー能力としても表れます。
そういう力は、人間の霊界から来た霊魂を持つ人間にもあるし、程度の違いはあれ、誰でも持っていますが、普通の人は、あまり本質性の強い世界には意識が届きません。
霊能者は、その力を霊や霊界に向けて、霊を通じて、本質世界の情報を得る場合もありますが、本質性の強い世界から来ている意識体(魂)を持つ人は、霊や霊界への執着(関わり)がないので、直接的に本質世界と繋がります。
この世界は、本質と表面がありますから、本質世界と繋がっていても、なんでも分かるわけではなく、例えば、科学的なことなどは、人間の自我の知識であり、そういう表面的なことは、普通に人間的な能力で理解することです。
しかし、本質性の強い人は、一種の霊感で本質世界と繋がり、そういう表面的な物事のアイデアを得たり、表面的なことを本質的に把握する力、物事の裏側にある真理を見ることが可能になります。


人にとって、本質性は強ければ良いと言うわけでもなく、心が本質世界に向かわないことで、地に足の付いた社会活動がしやすい場合もあるし、バランス良く世界を理解することで、社会の中でクリエイティヴな能力を発揮したりもします。
人の心の本質性が強いことと、社会的活躍は別のことと言えます。
むしろ、通常は本質的知識や能力がなくても、人間的能力があれば、社会では活躍できますから、本質世界と繋がってなくても構いませんが、性質的に自然と深く繋がってしまう人もいるのです。
通常、本質性の強い人は社会活動は控え目ですが、本質のさらにその上に突き抜けた人は、一体性と自我を自然とバランス良く併せ持っていて、何にも束縛されずに自由に生きます。


魂は肉体を通じて、物質世界を意識するし、心を通じて本質意識の世界にアクセスします。
人には、自我の強い表面的意識(表層意識などとも言われますが、人としての活動に大事な意識)もあれば、無の意識みたいな深い意識もあります。
そちらに向かうほど、意識できる形がなくなって行き、本質的になり、自我もなくなって行くので、自他の区別や、内とか外などの区別もなくなって行きます。
本質意識側から、肉体との関係を表現すれば、本質性の強い意識世界は、肉体の内にも外にもある世界と言えます。


意識には本質性の強弱がありますが、究極の本質は無です。
何もないとも言えるし、全ての源があるとも言えます。
この世の表面は様々に分別された個別の存在がありますが、この世の本質は誰でも持っていますから、人は本質的にはみんな繋がっているとも言えます。
宇宙は大きな1つの生命とも言えます。
本質性は、人間界(分別世界)では、一体性として表れます。


魂は自由です。本来、どこへ行こうと、何をしようと自由です。
地上では魂でも、本質性の強い世界では、別に魂じゃなくても良いのです。
ある程度、本質性の強い世界では、魂と言うよりも、なんらかの意識体として生きることも自由にできます。
そうするにしても、世界があれば、そこに分別はあり、自分ではない存在もいます。
もし、魂が自分一人で世界を作り出しても、意識する側、意識される側などの分別があります。
ゆえに、魂は本質世界であっても、調和的な愛がないと、自由に生きられません。


そのため、魂は愛を持ちたいのですが、本質世界は非物質性の世界なので、割と自由なので、そこで愛を持つのも、た易いのですが、魂にエゴの性質が残っていると、悪い心(攻撃的分別心)を持つことも自由にできるので、分別意識(自我)の強い魂は、本質世界での自由度が下がります。
つまり、エゴの強い魂は、本質世界の中でも、割と物質性の強い、自由の少ない世界でしか生きられません。


人間世界(物質世界)は、自由度が一番少ないので、そこでは、自我がどんなに攻撃的な分別心(悪い心)を持とうと、他の存在達の力のほうが大きいですから、一人の悪い心で世界全体が破壊されるようなことはありませんが、人間界より一体性の強い本質世界でそれをすると、その魂は、地獄のような世界で生きることになります。


ゆえに、自由度の少ない人間界(地球)は、エゴの強い魂には救いなのです。
なので、エゴの強い魂は、人間として生きようとします。
そこは、分別世界なので、自分一人の性質が悪くても、社会ルールがあるし、他者の愛があれば、その世界は、ある程度の秩序が保てます。
そこでは、愛があっても、相手のエゴが強いと届きませんから、愛があろうと、完全な自由は得られません。
良い人が一人いても、世界は大して良くならないし、悪い人が一人いても、世界は大して悪くなりません。
そこでは、愛というよりも、他者と戦って、自分のエゴを満たす生き方になります。
そういう人が社会的な力を得ますから、他の人もそれに追い付こうと、エゴを強めます。
しかし、それは本当の自由ではありませんし、苦労やストレスの多い人生になります。
そういう世界では、愛を持つ気になれない場合もありますが、魂にとっては、人としてうまく生きて行くというよりも、そういう社会の中でも大きな愛を持てるようにすることが、本来の目的なのです。
この物質世界の中で大きな愛を持てれば、それが魂の向上に繋がります。
魂にとっては、社会的立場は低くても良いし、自由の少ない厳しい立場のほうが良い場合もあるのです。
もちろん、そういう環境にダメージを受けて、魂が病んでしまえばマイナスですから、社会的自由や人間的な幸せを求めて良いのですが、厳しい環境の中でも愛を持てれば、魂にとっては大収穫なのです。


そういう魂が人としての肉体的人生を終えて、本質世界に向かうと、天国のような世界で生きられます。
本来、それが魂の目的です。
そこには、物質世界的な時間はありませんから、肉体感覚の時間で言えば、一瞬の世界なのですが、そこにいる意識体にとっては、永遠に等しいほどの時間があります。
それは、寝ている時に見る1分程の夢が、目覚めている時の感覚で言うと、何時間分もの出来事に思えることと似ています。
その天国のような世界は、物質性が薄いので、そこにいる魂(意識の主体)にとっては、自分の肉体があるか、なくなったかは関係ありません。
そして、自分が死んだか、生きているかも関係ありません。
肉体がなくても、意識としてそこに存在できるし、肉体があっても、心を通じて、その本質世界と繋がれます。
そのことを言葉で適切に説明するのは困難ですが、本質世界と、肉体との関係は、大体そんな感じになっています。


人は、エゴを満たす生き方をするのも自由だし、単に人として生きたいから、人になった魂も多いです。
それで良いなら良いのですが、エゴが強過ぎて、物事の本質性が見えていないと、なんだか良く分からないけど、生まれたから生きている、体験しているから体験しているという人生になります。
なぜ自分がいるのか、自分とは何なのか、この世界とは何なのか、そういう本質的なことが分からないので、とりあえず、エゴを満たすための人生になりやすいのです。


本質性が強く愛が大きければ、その分、世界も変わります。
魂であれ、人であれ誰もが自由を求めます。
大きな自由を得るためには、人として社会的自由や自分の夢に向かいながらも、魂の本来の目的を忘れてはいけません。
それは本質的な大きな愛を持つことです。
私は本質世界にいた大天使ですが、その愛を人に伝道する使命があり、人として生まれました。


本質性の強い世界にも、本質的な宇宙があり、星々もあるし、天使達の星もあります。
さらに本質性の強い世界には、創造主的な神様もいます。我々の創造力の源です。
本質世界には、霊界の神様のように人間的な性質を持つ神様もいますが、本質性の強い至高神は愛そのものです。この世の生命の源です。
誰もがその本質を持っているので、生きようとします。愛し合おうとします。
そのさらに本質性の強い世界に無があり、その無に全てがあります。
そこまで行くと、一体性と分別の区別もないので、無は人間には把握できないです。
人知を超えています。
しかし、それを表面的な形ある状態で、意識しているのが人の世です。
つまり、形ない無と、形ある有は、一体なのです。
本来、表面世界は、この世の根源(本質)でもあるのです。
魂が、究極の根源自体と一体化した場合、魂=この世全体になります。
魂としての自我は消えますが、その世界には本質と表面とその中間があり、その世界の中にはいくつもの個別の生命がありますから、そういう状態の自我を得ます。
本質性を極めると、完全な一体性を得ますが、そのことでまた大きな自我が生じるわけです。
誰も完全な無にはなれませんが、心にそういう性質を持つことはできます。
それが本来の意味の悟りです。
本質世界には、人間にも我々にも意識できない別の世界がありますが、それは関係ないので、そこまで絶対的な真理を求めるのは無理です。
人間にとってのこの世の真理があれば良いのです。
この世はある程度は、人間が理解できるように作られていますから、そこまでを理解すれば良いのです。


大天使は、天使の中でも本質性の強い天使です。大きな愛と本質的知識(真理)があります。
普段は、人の意識の中にいるので、肉体を持つ人として生まれることはありませんが、時々、自我を強めて、魂のようになり、人の心に入ります。
地上には、天使の魂を持つ人や、天使の意識と繋がった天使の心を持つ人がいます。
意識的なコンタクトだけでは、人々のエゴが強いと、ほとんど届かないので、地球には人としての天使もいたほうが都合が良いのです。


天使や神様がいるのなら、なぜ、人としてのキリストの死を救わなかったのかとか、なぜ、戦争を止めてくれなかったのかとか思うかもしれませんが、過剰に強くなった人間のエゴ(攻撃的分別心)は、物質世界では大変大きな力を持っているので、物質世界でその攻撃性に対抗するエゴを持つということが、我々の性質的にできないからです。
平和的な方法で、人間界の過剰な争いごとを緩和したり、できるだけ防ぐようにはしていますが、過剰な怒りや憎しみや恐怖心を持つエゴの強い人には届かない場合があるのです。


私達はあなたの悪い心を見通すこともできますが、それを持つのは人間の自由ですので、その自由を尊重し、そこには関わりません。
あなた達の良い面に関わることで、その人の心に愛が増え、悪い心は減っていきます。
人間として天使の魂を持つ者もいますから、そういう人達を通じても、平和を作っています。
悪と戦う人間的性質を持つ天使もいますが、本質意識の中の天使達は、限りなく平和な方法でしか愛と真理を伝えられませんから、ある程度の自我を持つ人に、それを人間的に解釈してもらって、分かりやすい形で、人に伝えてもらいます。
私には戦いができませんが、人間は平和のために戦うこともできます。
現在の人間界では、悪を正す場合に、相手以上の気持ちの強さがいりますが、私は平和的な解決を望みます。
悪は過剰なエゴです。それは人の自由です。
私達は、人間からその自由を奪うことはしません。
愛を与えることで、悪を正します。


愛さえあれば、誰にも愛されない人はいません。
どんなにダメな人でも、優しい愛があり心がきれいなら、愛してくれる人はいます。
それはみんな持っているはずです。






ブログに読者登録して頂いた方には申し訳ありませんが、今後の活動はメインサイトを中心に行う予定です。


メインサイトはまだ構築中ですが、たまに更新すると思います。

本業の仕事をやりながらなので、正式オープンまで時間がかかると思いますが、ここのブログに書いてあることに興味のある方は、下記のアドレスをお気に入りに入れておいてください。


http://empaffy.web.fc2.com



もっと本質性の強いお話や、幸せに生きる上で役に立つ話、神秘的な話なども書く予定です。


電子書籍の販売、プレゼントも計画中です。
サイトデザインなども創り込む予定で、私の描いた絵なども載せていくと思いますが、真理の文章化など人間的表現には労力と時間を使いますので、平和運動、サイト運営にご協力して頂ける方の募集もしております。



ブログのほうも更新は続ける予定ですが、しばらくは本業の仕事が忙しくなりそうなので、今後はペースが少しゆっくりになりそうです。
気になった時に、時々見に来てもらえればと思います。



それでは☆


愛のある良心を持つ人は「自由」が幸せに繋がります。ゆえに、安心して自由に生きます。


愛のない悪心を持つ人は、「自由」が不幸せに繋がります。ゆえに、自ら自由を制限します。


地球は、物理的法則が基本にありますから、元々、自由度が低いのですが、そこで自由を制限すれば、かなり苦しい人生になります。


愛のある良心を持つ人でも、社会的な技能や技術がなければ、社会では自由が得られにくいですが、自分の中の悪い心に苦しめられることは少なくなります。


良い人間はエゴが少ないので、社会活動が控え目になりやすいのですが、社会を良くする使命があるのだと思って、社会に関わるべきです。


そこにはストレスがあり、悪人に対して怒りを持つことも増えると思いますが、あなたが相手を傷付けなければ、そういう怒りで人間性が下がることはありません。
それは、自分の中の良心、きれいな心を守るための強い気持ちなのです。
天使の心を持つ人間は、現代社会の中では、いら立ちを持たずにはいられません。
しかし、人間社会では悪への怒りは、悪い心ではなく、正義心ですので、あまり気にしてはいけません。
誰かのせいで、悪い心にさせられたことに腹を立てれば、ますます気分が悪くなります。
ある程度、その怒りを我慢することが悪への許しであり、その我慢が愛なので、怒りで相手を傷付けるようなことがなければ、悪に対してネガティヴな気持ちを持っても良いのです。


悪人を憎んだり、避けたりするのも人としての正義です。
人間社会でしてはいけないことは、良い人間に対してネガティヴな気持ち(嫉妬など)を持ったり、ピュアな人の心を傷付けることです。
それが悪人の持つ悪心なので、それさえしなければ、あなたのネガティヴな気持ちは悪心ではありません。
正義による攻撃的な気持ちは、この社会では正しい気持ちなのです。


ただし、以前にも書きましたが、悪に対して否定的、攻撃的な気持ちを持つ場合も、ある程度その怒りを自制して、平和的解決に向かうことが大事なことです。
その自制心自体が愛であり、許しの心です。
それは人間として生きる上で、大変価値のある愛です。
その許しの愛で相手が変わらなくても、あなたが大きく変わります。
それは小さなことでは、ありません。
憎い悪に対する許し、それは一番大きな愛です。
良い人間が人として生きる上で、それ以上にむずかしいことはありませんが、それができるようになれば、人間性を超えた、神性な愛を獲得します。


悪を認めるということではありません。
人を悪く見ないことです。
悪を許すことで、あなたの中の良心が悪心に変わることはありません。
むしろ、大きな愛の心を得るのです。
なぜなら、「許す」という気持ちは、良い人が悪に対してのみ伝えれる愛であり、悪への癒しです。
許すことができるということは、良心を持っているからなのです。
許すことで、良心が悪に変わることは、あり得ません。
その一体性こそが、人間的な愛を超えた、本質的な愛なのです。
これは歴史上の聖人が獲得した愛です。
良い人間であれば、どれだけそれがむずかしいかを知っているはずです。
悪人を憎むのは正しいことです。そうしてあなたの良心は守られます。
しかし、その悪人に対して許しの気持ちが持てたなら、あなたは人間的な良心を超えた、神聖な心を獲得できるのです。
それを得ることが魂の目的であり、それは人間界でこそ得られるのです。
その大きな愛を得ないのなら、その人生に大した価値はありません。
もう一度、人として生まれないといけなくなります。
人生は、本質的な愛を獲得するためにあるのです。
それを得られてこそ、本当の自由を手にします。


許しの愛こそが、神の愛であり、本質的な愛なのです。
人は、その愛を持つことで、この世と真に一体化して調和します。


あなたを傷付けた悪い人がいたとします。
それはなぜ起こったのでしょう?
その大きな愛をあなたから引き出すために、あなたの本質世界がそういう物事を引き起こしたのです。
悪い人達に腹を立てるために生まれたのではありません。
許しの愛があれば、そういう事は起こらなくなって行くのです。


悪人を許していたら、悪人を増やすことにならないか?
確かに、人間社会ではそういう面もあります。
しかし、あなたが大きな愛を持てたなら、少なくともあなたはそういう悪人に心を傷付けられても大してダメージを受けません。
心の根本にある愛が守ってくれるからです。
もちろん、自ら、悪に傷付けられなさいという意味はありません。
悪から身を守るべきだし、人として、基本的には悪は正すべきなのですが、その愛が根本にあることで、悪への恐怖心が少なくなり、社会的な悪を正すことも行いやすくなります。
憎しみ過ぎては、悪は正せないということです。
そして何より、その憎しみ、悪への攻撃心が強過ぎれば、あなたの自由は少なくなります。
大きな愛を持つことで、大きな自由が得られるのです。



サイキック能力と「一種の霊感」は少し性質が違います。


サイキック能力は、スプーン曲げのように物質を意のままに動かしたいとか、人の心を読んで操作したいとか、人間的な欲の強い肉体的精神力です。
悪い心と結び付けば、魔力などとも言われます。


誰でも知っていることですが、物質世界を念力などの精神力のみで操作することは、ほとんど不可能です。
そういう次元の世界だからです。


技能、技術的なものなので、訓練してコツをつかめば小さな事ならできますが、その小さな事をするために、大変大きなエネルギーを使います。


目的を叶えるには、集中力がいるし、精神力がその手助けをします。
しかし、地上の現象を変えるには、基本的には肉体的、物理的な力が主力です。
イメージ、エネルギー的な癒しや治療とか、サイキック能力を人のために良いことに使うなら、本質的な愛の性質に変わるので問題はありません。
稀に、人間の霊や霊界の神が、その力を奇跡として示すこともあります。
そういう未知の力への興味や、その力の開発への意欲があっても良いとは思いますが、エゴの少ない人は、超能力への執着はありません。


「一種の霊感」はもう少し本質性の強い(エゴの小さい)精神力です。
その分、物質などに直接的に働く力はほとんどありませんが、一体性が生じるので、人を見ただけで、人の心の性質や人間性が自然と分かったり、本質意識での考え(インスピレーション)で物事を把握し解決できるようになったり、求めなくても本質的真理が得られます。


ある意味、エゴや悪心のないサイキック能力とも言えますが、人間の肉体的精神力と言うよりは、もっと全体的な力で、エゴの力を超えた、自他共有力です。
自然な力なので、求めないことで、得られます。


霊能力は霊との共感力です。
霊能力で霊や霊界を通して、本質世界にアクセスしたりもできますが、人間の霊の言うことは、あまり本質性がない場合が多く、良くも悪くも人間的な考えです。
ゆえに、キリスト教でも宗派によっては、霊との対話を禁止しているようです。
霊と関わりたい人は交流して頂いて良いのだし、そういう立場の人もいますから、あえて、否定することでもないと思いますが、どうしても霊と繋がってしまう場合を除いては、普通の人は、あまり関心を持たなくても良い方面です。
人間が自分で作り出している霊も多く、霊との繋がりを持ちたくない人は、霊を信じないことです。
人間の霊界に向かう魂も多いし、ご先祖様の霊に対して癒しなどの気持ちを向けることは、良いことだと思いますが、普通の人は、その程度の関わりで良いと思います。
霊が見える人が霊を癒すことも同じですが、その気持ちが霊に届かなくても自分自身を癒します。
守護霊や守護神を信じることでポジティヴになれるなら、それも良いのですが、ビジネスで霊を扱う仕事をしている人には、その人自体の人間性や本質性が低かったり、悪質な人も多いので注意して下さい。(それは、サイキック能力をビジネスに使っている人にも同じことが言えますが、そのことは後ほどお話します)
霊や人間の霊界を信じることは良いのですが、そこに執着し過ぎると、もっと大きな世界があることに気付けません。
真理を理解し、大きな愛を得ることで、人間の霊界が、肉体を持つ人間から意識した本質世界の一部でしかないことに気付きます。
また人間として生まれる段階の魂はそこに向かうことが多いようですが、そうでない魂は、もっと自由度の強い本質世界に向かいます。


ある意味、「一種の霊感」は、自分自身が肉体意識を抑えて、霊的存在(魂、本質的意識体)になって、本質世界と繋がることです。
なので、霊感といえば霊感ですが、人間の霊界に関心がないなら、そこに向かわなくても良いのです。
関心は執着になります。
人間の霊界は自我の強い魂、人間界への執着が残る魂(人間的性質の強い魂)が向かう場所で、その世界は霊的な人間界です。
一体性を得た魂には、もっと大きな本質世界があります。
魂が人間の霊界からそこに向かうこともありますが、本質性の強い魂は、人間の霊界を通らずにそこに向かいます。
本質性の強い世界では、魂が何になろうと自由です。
魂の性質によっては、究極の本質近くまで到達できますが、どこへ行こうと自由です。
本当に自由で美しい平和な世界は、そこにあります。
魂によっては、究極の本質と一体化して、完全な平安を得ます。


「一種の霊感」の強い人は、本質性の強い世界が肉体の内外にあって、見た目からして独特の雰囲気があります。
美意識が強い人が多いのは、本質世界にある天国が清らかに華やかで美しい世界だからです。
そこが美の基準になっているからです。
ただ、もっと本質性の強い心の人は、わりと質素というかピュアで清楚な感じを好むようです。
悟りを表現しようとしたり、平和な社会活動をしようとします。
本質世界では、本質性が強いほど、清らかさと平安が強まるからです。


強い一体性のある共感力は、自他共有力です。
無我の心です。
これと本質的な愛の気持ちが調和すると、超能力を求めなくても、自然と調和的な良いことが起こり始めます。




釈迦は諸行無常、全ては移り変わると言いました。
それらの変わり行く儚い物事に執着しないことで、変わらない平安(無心)を得ました。


これは現象を無視することではありません。
釈迦の悟りにはそういう面も少しはありますが、世俗で生活して行く上で、そういう訳にはいきません。
基本的に、現象の変化に調和して生きて行くということです。
変化に合わせて、執着の内容も変化させて行くのです。


釈迦は自分が死ぬ前に、悲しむ人々や動物達(平和な人だったので動物にも愛されました)に対して、花が枯れるのと同じで当たり前のことだから、悲しむことではないと伝えました。
美しい花を楽しむのは良いのです、それが枯れたら、その無常(変化)を受け入れ、ありのままに受け取るのです。
時には無常を悲しむのは人として自然ですが、悲しみ過ぎれば、前に行けませんので、未来の幸せが減ります。


釈迦はこの世には真の我はないと考えていました。
無(究極の本質)に自分の主体を置くことで、現象への執着を緩和しました。
世俗的な幸せに執着しない分、苦しみが減り、平安という静かな幸せを得ました。
釈迦は、「私には自分や他人という区別はありません。私は悟ったとは言わないし、悟ってないとも言わない」と言いました。
これは釈迦の意識の主体をあえて言葉で表現したのであり、釈迦にとっては、肉体的な自分というのは、自分ではないのです。
ゆえに、肉体的な自分に煩悩が残っていても、その肉体や煩悩に実体性はなく、その苦しみにとらわれることがなかったのです。
無我が真の我だったからです。
実際に我が完全な無だったら、何も言えませんが、肉体があれば、意識面で自分を無に置くことはできます。
意識できない我の主体が、我だという気付きが持てれば良いのです。
そこには分別がなく、本質(一体性、完全な平安)があります。
自我をそういう意識状態にすることで、煩悩を吹き消したのです。
ただ、無心を持つことだけが悟りではありません。
肉体意識に置いては、正しい考え(真理)を持ち、正しく生きることが幸せに繋がるとし、無執着無分別というのは、その正しい生き方の一面に過ぎません。
釈迦が悟ったのは無ではなく、人としての真理です。
人としてのバランスの取れた正しい生き方を示したのです。
生き方と言っても、基本的には解脱を目指す出家者向きの生き方なので、世俗で生きる立場では、ややむずかしい生き方です。
実行しようとすれば、どうしても出家者のような生き方になりますから、そうなりたくないなら、自分に適切な生き方を心得るべきです。
釈迦も在家者には、その立場向きの説法をしたと言われています。


社会活動に置いては、肉体的意識を強めることになりますから、釈迦レベルの平常心は得られませんが、執着しながらも、現象の変化に合わせて、執着を変化させて行けば、執着の苦しみは緩和されます。
そうすることで、執着は執着ではなくなります。
現象にとらわれても良いのですが、現実の流れに反して引きずることが執着なのです。


人生にはうまく行く時と、うまく行かない時があります。
未来には確定的な面と、不確定な面があります。
当然、目的に執着しても良いのですが、うまく行かない時は、それも受け入れ、うまく行くことだけに執着してはいけません。
それでは、うまく行かないのではと思うかもしれませんが、そうした方が心の平安(本質性)が維持できて、物事と調和するのです。
そのため、うまく行かない時があっても、それにとらわれ過ぎずに、また目的に集中することができます。
無心が目的への集中力を向上させるのです。
もちろん、ある程度は反省も大事ですが、うまく行かないことに執着し過ぎてもいけません。
常に物事は流れ変化して行くので、そこで自分だけが止まらないことです。


物事は、過去から引き継ぐ面と、新しく創造される面があります。
その過程には、維持されること(変化を抑えれること)や、破壊されること(変化を避けられないこと)もあります。
人生において、良い物事を維持するのは大事なことだし、執着(集中)なく創造行為はできません。
ただ、変化を恐れすぎてはいけません。
完全な無変化はこの世の現象にはありません。
この世は無変化になれないから、変化しながら存在しているのです。
変化が生きることであり、生命(維持)の自然な姿なのです。
維持していること、それを自ら捨てなくても良いのですが、どうしてもそれを維持できなくなったら、そのことを受け入れ(執着をやめて)、もっと良い物事の創造に向かうべきです。


諸行無常と言っても、ほとんど変化しない確実性の強いこともあれば、すぐに変化するような不安定なこともあります。
社会活動の中では、どうしても執着せずにいられないこともあります。
ゆえに、無執着にこだわり過ぎてもいけません。
ある意味、悟りや無執着さえも諸行無常なのです。
常に無心で平安でいることは、なかなかむずかしいし、どうしてもうまく生きられない場合もあると思います。
なので、心がけや理屈にもとらわれ過ぎないようにして、状況に合わせて臨機応変に対応することも人生には大事なことです。


ある意味、軽快に前向きに乗り良く生きる事が社会での悟りでもあります。




前回、色即是空、空即是色の意味について書きましたが、この世は本質的であるほど、表面的な形がなくなっていきます。


しかし、人間の立場であれば、表面的な形あるものから、本質性を見い出すこともできます。


絵画や言葉から本質性、真理を得ることも可能です。
真理を表現した言葉はいっぱいあるし、本質性にしても、絵に描かれている天使から、天使の性質を心に入れることもできるし、お寺や教会の雰囲気、宗教芸術などからも、神秘性、神性や仏性などを感じることができます。
また、そういう仕事に携ることで、深い本質性を得る場合もあります。
占いやスピリチュアルな出来事から、この世の神秘性や本質性を感じることもできるし、人によっては、パワーストーンや神様グッズ、開運グッズなどからポジティヴな気持ちを得ることができます。
愛、平安に関して言えば、様々な世俗的な方法でも得られます。
人は、表情や雰囲気だけでも人に愛や優しさを伝えることができます。


もちろん、精神的に本質世界に直接アクセスしたり、感覚的に本質を理解することもできますが、表面的な形で本質的な愛、平安、真理などを得るというのも人間の立場では可能です。


イメージだけとか、愛の感覚だけとか、心の平安だけとか、そういう透明感の強い、はっきりしない状態だけでは、人は幸せになれません。
人は、自我を持つ形ある存在であり、平安だけでなく、刺激的な高揚感とか、楽しい体験などもしたいのです。
肉体を持ち、日常生活や社会活動があれば、本質的な形のないものだけでは、幸せになれないのです。
確かに、全ての物事は変化して行きますが、そこに執着しないからと言って、それだけでは幸せになれないし、そもそも、執着しないわけにもいきません。
心の平安だけでなく、なんらかの幸せを感じる対象が形としても欲しいのです。


美しいもの、美味しい食べ物、楽しいこと、安心できる物、好きな人、それらを得ることが、一般的な人の幸せです。
物質や肉体は本質の表れなので、本質そのものではありませんが、そこにも本質性はありますから、表面の形は、そういう形の真理とも言えます。
それを求めるのは、人として自然な正しいことです。


しかし、表面は分別世界なので、何でも自由にできるわけではありません。
ここでは、苦労なく幸せにはなれません。
その苦労を軽減するには、そうするための正しい考えがいるし、そうするための精神的、肉体的な行為、技術がいります。
世俗的幸福に向かうには、本質的な真理だけでなく、社会的、物理的な表面知識もいるし、仕事として社会で本質的な愛のある行為するにも、そうするための技能や技術がないとできません。


普段、特に悩みもなく、幸せに生きられてるなら、それはそれで、そのままで良いのです。
とりあえずは、世俗的な方法で、世俗的な幸せに向かえば良いでしょう。


それが向いていないなら、心の平安に価値を置き、静かな生活をするのも良いのです。
しかし、そういう人でも、できることなら社会的自由や世俗的幸福も欲しいというのが、本音ではないでしょうか。
そうするためには、精神的、物理的なテクニックを身に付けるべきです。
物質世界で世俗的な幸福を得るには、そういう能力と技術がいります。


悟ることでそれができると考えた人がいました。
本来、釈迦の悟りはそういうものではなかったのですが、悟りを世俗的な自由に繋げることを考えたのです。


社会での悟りは、この世の二面性(場合によっては多様性)のバランスを取ることから始まります。この世への正しい理解、把握です。
人間的な自由は、真理を把握し、本質性と世俗性、一体性と分別、そういうバランスを取りながら、うまく生きて行くことで得られます。


人には個性があります。それぞれに向いている道があります。
本質性の足りない人は、本質性を得るべきです。
世俗的幸福よりも、心の平安が欲しい場合は、そちらに向かうべきですが、それで、幸せになれないなら、やはり世俗に向かうか、その中間の生き方をするのです。


自分に合った、幸せな生き方のバランス感覚は、誰かから教えてもらうこともできますが、人生を体験しながら、自分の方法で得ることも可能です。
どちらにせよ、真理と愛がそれを助けます。


私がおすすめしたい、人としての生き方は、愛のある心で、世俗的な目的(人間的な幸せ)に向かう生き方です。
そうすることで、人は社会の中で、無心無我になります。
この場合の無とは、限定できない、つまり、自由です。
本来、悟りとは、自由を得ることです。
社会では、愛(協調性など)がなければ、自由は得られません。


自由な心(無心)で、世俗の目的に向かうべきですが、そのためには、愛と真理がいるということです。
社会では、そういう心で、自分の夢に向かうこと自体も愛なのです。
好きな人に心を向け、愛し合える人をみつける。それも人として正道です。
真理がその愛を妨げるなら、真理さえもいりません。
本当の真理は自由だからです。
人は、みな自由なのです。
この世界というのは、自由の表現なのです。


自由は何にも束縛されません。
愛はそれを可能にします。
この場合の愛とは、人としての本質的な愛であり、平安や癒し、思いやりなどの一体性のある、調和的な優しい気持ちのことです。


人間にはエゴがあり、エゴの過剰の強い、いわゆる悪人もいます。
なので、社会ルールがあります。
真理と愛を理解する人は、その社会ルールに縛られず、自由に生きられます。
自発的に秩序を作り、無理なく自然と社会ルールを守れるからです。
愛が、ルール(束縛)自体を、「自由」に転換します。
真理を得とくし、大きな愛を持つ人は、運命さえも自由に変わります。
私達は、束縛のないその大きな自由を目指すべきです。


その状態では、人はどう生きようと真理の人なのです。
人間社会では、愛と自由は分別できません。
愛が一番正しい真理なのです。




人間としての悩みは、人として生きる限り、自我はなくせないし、執着はなくせないということです。
もし一時的に、平安な心を得ても、それを維持することは困難です。
聖人であっても、人であれば、ある程度はそういう苦労はあるはずです。


幸せな結婚をして、幸せな家庭を作り、幸せな人生を送る。
そういうのが一般的かもしれませんが、それが得られないとか、そこに限界を感じると、本質的な生き方に向かう場合もあります。


なぜ、悟りや涅槃、無心に憧れる人がいるのでしょう。
簡単に言えば、楽になりたいのです。苦しみたくないのです。
何にもしなくても幸せだけあったら、素晴らしいのですが、肉体を持った人である限り、それを継続するのは、不可能です。
無心無我とは、「いろんな束縛から自我を解放する」ことではなく、「自我そのものを解放すること」です。
そこに苦しみはありません。
しかし、人は自我がなくなれば、存在ができなくなります。
人は存在自体が苦しみなのです。
もし、一体性や愛がなければ、人には苦しみしかありません。
通常、誰でも本質(一体性、平安、愛)を持っているので、そこまで苦しみませんが、自我が強まると大きなストレスを受けます。


世界は本質だけでは作れませんので、精神的に本質性が強過ぎれば、場合によっては、肉体的に弱くなったり、社会に適応できなくなったりもします。
そういうのは、ある意味では本質性ではなく、自我なのです。
本質や平安への執着が自分を苦しめるのです。
そういう精神性でも生きられる環境や立場、仕事なら良いのですが、一般的な立場の生活ならば、そこまで本質性(真理、平安)を求めないほうが良いのです。
現代では、菩薩や聖人君子にできる仕事はほとんどなく、この社会を生きるには、本質性の対極のような世俗性、分別意識、ある程度のエゴが求められるのです。
その分、平安は乱されますが、それがなければ、社会的自由、世俗的幸福は少なくなります。
自我があることによる苦しみを緩和できれば良いのであり、自我を完全になくそうなどとはしないほうが良いのです。


この世は、本質、表面、その中間があり、偏りすぎれば、社会に不調和な存在になります。
真の本質性、平安は、調和的バランスにより得られます。
分別、無分別もバランスが大事です。社会では善悪などを分別するべきですが、善悪などを過剰に分別してはいけません。ある程度は、無分別の意識があることで、平安があります。
この場合の無分別というのは、悪を善として認めることではなく、悪い見方をしないということです。悪(過剰分別)の意識自体を持たないということです。
ただし、逆に無分別過ぎてもいけません。悪は自我のエゴから生じます。社会では、自分が良くても他人の悪に迷惑を受ける場合もあります。
人としては悪は正すべきもので、善悪などは無分別にできるものではないので、無理に一体性を持たせれば、それは執着になります。
そういうバランスは、言葉で考えるのではなく、優しさ、癒しなどの愛の心を持つことで、自然と調和的な分別ができるようになります。
愛のある分別こそが無分別であり、善悪を一緒くたにすることではありません。
社会的には、あまり差別的にならない程度で良いのです。
そういう調和的なバランス感が一体性であり、本質性の表れなのです。


本質は表面そのものではありません。
もし、この世の本質が神だとしても、我々人間は神そのものとは言えません。
性質や形状や立場が違います。
本質を海と例えれば、海と、水道の水は、同じ水でも同じようには扱えません。
水を飲みたい時に、海に行っても仕方がありません。
水道から出る水を見ても、それは海ではありません。ただし、その水から、海をイメージしたり、感じることはできます。
本質的には同じでも、それが表面化されれば、確かに別の存在でもあるのです。
ゆえに、表面の分別世界を生きる人間は、本質的意識が強過ぎてもいけません。
表面世界への理解もいるのです。


仏教的には、色即是空という言葉があります。
割りと有名ですが、釈迦の悟りの延長にある言葉だと思っています。
「色」は我々が意識する世界であり、それ自体が空(本質、形ないもの)であるという意味です。
仏教では、この世(色)は実体がなく、あらゆる現象は「空」だとしますが、我々は「空」そのものではありません。
ゆえに、色即是空のあとに、空即是色という言葉も続きます。
空(本質、形ないもの)は、色(表面現象)であるとします。
形ある表面的な現象そのものが真理であるということです。


色即是空はエゴの消滅に向かいます。
肉体や自我、現象を本質化して空(一体性)に向かわせます。
空即是色は本質の消滅に向かいます。
本質に、肉体や自我、現象を置くことになります。分別やエゴをある程度認めることです。


この世には、この二面性があり、そのバランスを取ることが大事なのです。
本質性が強過ぎて、社会に適応できない場合は、色即是空ではなく、空即是色、自我に真理を見い出し、自我を幸せにするべきです。
すでに本質性は過剰なぐらい充分得ているのですから、それを抑え、人間的な価値観と考えを持ち、人として自分が幸せになれる道を行くのです。
もし、本質的、人類愛的な生き方をするにも、現代社会では、ある程度の世俗性もないと、それもできないのです。
元々、この世に本質的なことは、ほとんどないのです。
本質性の強いことは、現象化されないし、人と関われません。
ある意味では、悟りを得るというのも、目的のタイプが世俗的ではないだけで、世俗的な目的を叶えることと、そんなに変わらないのです。
どちらにせよ、苦労がありますが、目的が叶えば、幸せになれます。
伝説上でなら、完全な聖人や覚者にもなれますが、実際にはどんな立派な人にも世俗性があり、欲や執着も残っています。
人間はそういう立場の生物なので、それで正常なのです。
そういう状態で人として大きな愛を持てることが偉大なことので、本当に超人になったら意味がありません。


幸せに生きるには、正しい物の考えもいりますが、基本的には、心に愛があれば良いのです。
正しさ、思いやりや優しさです。心の美しさでもあります。
それがあれば、自分の自由に生きても、攻撃的になり過ぎないし、差別的になり過ぎず、適度な調和的バランスが自然と得られるのです。
愛があるならば、充分立派なので、人としての心で自由に生きましょう。




人並み超えた聖人として思う浮かぶ人はだれでしょう?
有名どころでは、釈迦やキリストなどのレジェンドがいます。


お二人の共通点は、エゴが少なく、精神的な一体性(強い本質性)を得ているということです。
その一体性は、愛のある行為という形で表面化されました。


愛には、性愛や恋愛などもありもすが、それはどちらかと言うと、肉体的な自我から生じる愛です。
それゆえ、性愛がらみの社会問題があったり、恋愛で悩む人も多いのです。
性愛や恋愛などは人として自然なことだし、うまく行けば幸せを感じる素晴らしいことなのですが、うまく行かなければ、憎しみや悲しみに繋がります。
もちろん、相手を思いやったピュアな恋愛は本質性も強いのですが、恋をすると自分の恋心にとらわれて、相手の気持ちが分からなくなったり、自分のための恋愛をしてしまう場合も多いのです。
本質性の強い人は、そういう愛にはあまり価値を置かず、もっと全体的な愛に意識が向かいます。
それは親子間のピュアな愛にも似ていて、自然で穏やかな愛です。その愛の拡大です。
人類愛とも言えますが、そのため、釈迦やキリストも性愛や恋愛などの執着は、むしろ断とうとしたようです。


この世の根源を神としている人の中には、本質性を得ると、汎神論的(全てが神の現れ)な思想に向かう場合もありますが、そうすると、世の中の悪人、悪事も神の意思なのかという疑問が生じると思います。


しかし、本質性というのは、一体性であり、それは人間界では、人を通じて、癒しの思いやりや愛という協調的な形で表れます。
反対に、世の悪いことというのは、攻撃的な過剰な分別(差別)による苦しみです。
それは、人間という自我の存在から生じます。
人間は個として存在し、自我を持っている時点で、すでにストレスがあるのですが、その状態から憎しみ合いなどで、さらに自我が強まると、強烈なストレスが生じます。
自由と愛のある状態の対極にある状態になります。
そういうことは、みんな嫌いなのですが、社会生活の中では、エゴはなくせませんから、程度の違いはあっても、だれでもそれを体験せずにはいられません。
でも、できれば関わりたくない、それが世にある「悪いこと」なのです。
それを減らすのが、真理と愛です。


神様は本質的な立場なので、その神様が人間的感覚の意識を持っている場合、その意識が人間界に表れると、調和的な平和な意識、癒し、愛などとして人は認識するのです。
ゆえに、神様の意識がこの世に悪をもたらす心配はありません。
本質性の強い神様には悪がないのです。
愛、癒し、救済が神の意識です。


キリストは神様を完全に信じていました。信仰心により神様とダイレクトに繋がっていました。
現代人には得られないレベルの本質性を得ていたので、エゴはありませんでした。
そのため人類愛的な人生を送っていました。


しかし、人間のエゴが、キリストを殺しました。
キリストは自分が死ぬ前に、神様にお願いをしました。
「神様、どうか私の命をお救いください。」ではありません。


「あの人達は自分がしていることを分かってないだけなのです。神様、あの人達をお許し下さい。」
それが人としてのキリストの最後の願いでした。
キリストは自分を殺した人達にさえ、癒しと許しの気持ちを向けたのです。
世界中の天使達が、キリストの優しさに涙しました。
その愛の大きさと美しさゆえに、後世でキリストは神様と等しくなりました。


キリストにとっては、自分の命よりも、何よりも愛が大事だったのです。
神の意識というのは、愛の意識だからです。
そういう意識状態にあると、敵と戦い、自分の命を守るというエゴさえ消えてしまうのです。
本来、キリスト教というのは、その本質的な愛を理解するためにあるのです。
キリストの人生は、後世の人々に愛を教えるために、本質世界が作り出した真実のドラマなのです。


一方で、釈迦は神様のもっと向こうに真理を見い出しました。
世俗的なエゴはまったくありませんでしたので、かなり精神的で本質的な人生になりました。
釈迦が無神論者と言われることがありますが、正確にはそうではありません。
人間が意識できる神様のさらに向こうにある究極の根源と繋がったのです。
そのレベルの根源というのは、言葉でどうこう限定できないのですが、考え方によっては、神様の本来の状態とも言えます。
そこには、完全な平安、一体性があると思われます。
その平安が、世の癒し、愛の源です。
無執着無分別を良しとした釈迦が、善悪を分別し、慈悲を持ち善行を行ったのはなぜでしょう。
無執着無分別ゆえに、一体性(本質性)が強く、その状態の人間は、特に悪いことをしないように気をつけなくても、自然と悪いこと(攻撃的、差別的行為)ができないのです。
ゆえに、執着や分別から生じる苦しみ(煩悩)が消えるのです。
特に意識しなくても、調和と本質的な愛の方向に気持ちと行為が向かうのです。
釈迦は涅槃になって消えたのではなく、仏様として後世に残り、その本質意識は今も我々の中にあり、慈悲や真理として現れます。


本来、宗教というのは、愛と真理を理解するためにありますから、宗教団体に入らなくてもそれが得られるなら、その人に宗教はいりません。
宗教に入ったほうが安心でき真理に向かいやすいという場合は、その人にはそれが向いていると思います。
現代ではほとんどの宗教はビジネス化されています。
宗教以外の方法でも、「愛と真理を理解する」ということが商品化されています。
愛と真理を教える側にしても、生活基盤の安定がないとむずかしいので、それで良いと思うのですが、ビジネスとして行えば、執着やエゴも強くなりやすいので、愛のある正しい生き方から離れないように心がけるべきです。


真理と愛を理解する方法は、個人の自由であり、とくに愛に関しては、言葉以外の方法でも、様々な手段で得られます。
自分に合った方法で、愛と真理を得るのが良いでしょう。





執着がなければ、苦しみもないと言っても、人は執着せずには生きられません。
幸せを求め、できないこと、得られないことがあれば、欲も自我も強まります。
執着し過ぎないように気を付けて生きるというのは、やや消極的な気もするし、社会活動の中にいれば、その心がけ自体が束縛(無執着への執着)になって、苦しみを生じやすいものです。
それでは、あまり意味がありませんし、かと言って、平安を求め無心になれても程度を越えれば、社会的な積極性や生産性は下がります。
それでも良い生活の人はいますが、一般的には、会社の利益や、自分が生きるお金を稼ぐために、どうしても執着は強まり、心は乱れがちです。
苦しみに繋がりにくい執着ができれば良いのですが、社会の中ではなかなかむずかしいことですね。
しかし、できる範囲でこの苦しみを緩和したいものです。


前向きに、活動的に執着を緩和する方法としては、愛のある執着をすることで、執着を愛に変えるということです。
この場合の愛とは、何かに取り組む時、何かを得ようとする場合に、自分だけではなく、それを全体的な幸せに繋げる気持ちを持つということです。


そういう一体性の愛のある気持ちが欲を抑制するので、エゴが透明化され、執着はピュアな目的に向かいます。


ピュアな目的とは、本質性の強い目的です。
自分の夢を叶えることが、他者の幸せにも繋がる状態です。
自分とこの世が愛で一体化され、自分だけでなく、世のために生きます。
そこには、優しさ、自発的秩序、協調性などがあります。
そうなれば、自然と、無執着への執着も緩和され、バランスがとれて、執着心はピュアな目的への集中力に変わります。


汚れた目的というのは、他者の迷惑を考えずに、自分だけが自由になろうとしたり、他人に攻撃的になり、自分だけが幸せになろうとすることです。
そこには、優しさや思いやりはありません。
無神経な力ずくの生き方です。
一時的に幸せになれたとしても長続きせず、社会的に不調和な立場になっていきます。
他者との繋がりが持てずに、社会を妬むようになり、自由を得ることが困難になります。


もし才能や徳があって、物質的に恵まれたとしても、真理や愛が足りなければ、心の平安が得られずに、それが過剰な執着や欲に向かわせます。
しかし、それも愛に向かうための人生であり、そこからどう立ち直るかということです。


どういう生き方にせよ、幸せを求めれば、苦労はありますが、本質的な愛の気持ちはその苦労を軽減します。


しかし、現実には競争社会であり、その中では癒しの気持ちなどの優しさだけでは、生きられませんから、目的へ向かう強い気持ちなどもいります。
エゴを剥き出しにして強引に他人の自由を奪う人や、人を傷付けても平気な人もいますから、そういう社会の中では、平和や正しさを維持するのは困難です。
時には、敵対する人と憎しみ合うことにもなりますが、自分がどんなに正しく、相手がどんなに間違っていても、攻撃心には限度を持つべきです。
それは、本質(愛、一体性)から、かけ離れた状態なので、強い苦しみが生じます。
そういう状態でもある程度は、穏やかさを心がけ、相手を癒す気持ちを持つべきです。
怒りや憎しみで荒れている人ほど、癒してあげないといけないのです。
その癒しの気持ちが相手に届かなくても、相手への癒しの気持ちが、相手からの自分への攻撃的な思いを緩和してくれるのです。
相手は変わらなかったとしても、自分の中にその分、愛が持てて、その分、相手を許せます。
それがあれば、そういう荒い人達との関わりは減り、良い仲間が増えやすいのです。
もちろん、物理的にそういう環境に変えていくことも大事ですが、そうするためにも、自分の心の中に平和がいるのです。


社会では、時々、攻撃的になったり、排除的になったり、ネガティヴになったりは、ある程度は、仕方のないことです。
執着して苦しんでも、それも人生では正常なことなので、自分の心が悪くなっても、それを気にし過ぎてもいけません。
そういう気持ちにとらわれ過ぎないように、日頃から、他人を癒す気持ちを持つことを心がけましょう。
他人を癒すには、自分がある程度元気で平安な心でないとできません。
自分の中で、そういう心がけを意識的に持つことが大事です。



以前、生まれ変わりについて書きましたが、(と言っても生まれ変わりについては書きませんでしたが)地上の霊能者などが霊感などで得たあの世の情報や、人の臨死体験、前世の記憶、魂の記憶、幽体離脱の記憶などは、生きている人間が意識することであり、「人としての命の中」にある情報です。
それらにも、事実は含まれますが、本当の意味での死後の情報ではありません。
それは人生というドラマの一部なのです。
人生には、その人にふさわしい出来事しかありませんから、人の人生によっては、そういう情報がほとんどなかったりもします。
実際に死んだ後というのは、実際にそうならないと、真実は分からないのです。
そこに行くまでの間とか、ある程度なら分かる面もありますが。


これは、「究極的な本質」が人間に意識できないことと同じです。
意識するということは、その時点で、表面化されているからです。
もちろん、本質に近いこと、本質性の強いことはあると思いますが、本質性の強いこと程、人には理解し辛くなっていくのです。


死んだ後、魂のような自我を持った主体が残った場合、それは本質性の強い世界に向かうと考えられますが、それ以上のことは、生きている内にはっきりさせれることではないように思います。
もし、自我の主体自体が消滅した場合は、さらに、本質性の強い方向に向かうと思いますが、釈迦はそれを涅槃(ニルヴァーナ)としたのではないでしょうか。
肉体を持ったままそこに到達したから、悟ったのでしょう。
人間界や霊界、人にとっての神様とか、そういう人としての命の中にある現象、物事の全て、そのさらに向こうにある究極の本質を含めてこの世を理解したのだと思います。
ただ、その涅槃は本質性が強過ぎて、普通は人として生きている内には到達不可能で、少なくとも言葉での的確に限定された説明はむずかしい状態なのだと思います。


釈迦の教えでは、魂の存在とか、あの世以降については無記として、語らなかったと言われています。
そこへの執着があるとその向こうにある真理に到達できないからとも言えますが、そういう本質性の強い方面には、言葉で限定できるような絶対的な答えはないからだと思うのです。


愛とか神様も本質性が強いからこそ、はっきりとした形がなく思え、言葉ではっきりと限定できないのですね。
逆に言えば、いろんな形で表現の仕方があるとも言え、はっきりしてない分、自由でもあるんです。
つまり、本質に向う程、自由度が強いのです。
究極の本質を得ることと、完全な自由を得ることは、等しいと思えます。


もちろん、大天使としての私は、神様をよく知っているし、死後のこともある程度は理解していますが、全ての人が共通の死後の世界があるわけでなく、人によりけりな面もあるのです。
地球にいくつもの国があり、それぞれの人生があるように、死後の世界にも、人の魂の状態により、いくつかのパターンがあります。
魂の性質、向上段階によって違うのですが、現在、よく言われる人間界的な階級のある霊界に行く魂もいれば、星に帰る魂もいます。
愛のある本質性の強い魂は、死後に関しても生きているうちから執着が少なく、そこに束縛されないので、肉体から出た後も割と自由なんです。
今の人間界的な霊界については、私は行かないのであまり知りません。
私は宇宙の星空を遊泳してから、天使たちの星に帰る予定です。
あの平和な美しい星です。
そこに人は入れませんが、私のように平和な美しい魂になれば、どなたでも入れます。
多くのみなさんはそこの場所を知らないのですが、テレパシーで私を探してもらえれば、すぐに分かります。
そうでない場合は、魂それぞれですが、自分の古里の星に帰ったり、少し違う世界に行くことになりますが、とりあえず、心を愛で満たせれば、何も心配はいりません。


本来、魂はどこへ行こうと自由なのですが、魂の性質や向上段階によって、行ける場所が限られるのです。
執着心が強く欲深い魂は、肉体から出た後もその執着に束縛されます。
そういう魂は、本質性の薄い、自由度の少ない物質的な世界に向います。
この執着が、いわゆる輪廻転生(人間としての生まれ変わり)の元になっています。


人として愛と自由が得られたなら、その魂にふさわしい愛の世界に自由に行けるのです。
人を愛に導きたいなどのなんらかの使命感などがない限りは、もう人間としては生まれません。
もっと自由で美しい平和な世界があるからです。
そちらに向いたい方は、まずは、愛と自由についての正しい理解を持ちましょう。


私には、そういう真理と愛を人々に伝道する使命があるのです。
なので、そうでない他の生き方をすれば、私は苦しくなります。
どうか、皆様に愛が届きますように。