前に、生まれ変わりについて書いた時に、魂の状態や性質によって、あの世への向かい方に、いくつかのパターンがあると書きました。
肉体の人生を終えると、魂は本質性の強い世界に向かいますが、本質世界での魂は、それぞれの性質や能力により世界が違います。
本質世界は、物質世界よりも自由なので、そこでの魂も自由ですが、表面世界に物理的法則などがあるように、本質世界にも物質性の強い範囲では、ある程度の形式(ルール)が決まっています。
霊界というのは、本質世界でも割と物質性の強い世界です。
自我の強い人間的な魂のいる世界です。
そこにも天使や神様はいますが、そこよりも、さらに大きな本質世界があります。
本質性の強い人は、魂と本質世界の分別がなく、魂という自我がないようにも思えますが、人体があれば、魂みたいな自我を持つ意識の主体が普通はあります。
私の言う、魂とは、人の自我意識の主体のようなもので、霊界から来た魂(霊魂)とは、少し性質が違います。
霊界よりも本質性の強い世界から来ている意識体です。
そちらは、死後の世界というよりも、死や生という分別を超越した世界です。
そこで肉体を持って存在できませんが、人間も心を通じて、ある程度はアクセスできます。
それは、「一種の霊感」ですが、霊能者の霊感とは方向性が違います。
霊界よりも本質性の強い世界に、直接的、または間接的に繋がる感受性です。
霊や霊界を通さずに、さらに本質性の強い世界を把握する力が、その「一種の霊感」なのです。
これを持つ者は、物事の本質性(真理)を把握したり、肉体的性質によっては、創造的になり、クリエイティヴな活動に結び付きます。
人間社会的には、本質的な共感力やテレパシー能力としても表れます。
そういう力は、人間の霊界から来た霊魂を持つ人間にもあるし、程度の違いはあれ、誰でも持っていますが、普通の人は、あまり本質性の強い世界には意識が届きません。
霊能者は、その力を霊や霊界に向けて、霊を通じて、本質世界の情報を得る場合もありますが、本質性の強い世界から来ている意識体(魂)を持つ人は、霊や霊界への執着(関わり)がないので、直接的に本質世界と繋がります。
この世界は、本質と表面がありますから、本質世界と繋がっていても、なんでも分かるわけではなく、例えば、科学的なことなどは、人間の自我の知識であり、そういう表面的なことは、普通に人間的な能力で理解することです。
しかし、本質性の強い人は、一種の霊感で本質世界と繋がり、そういう表面的な物事のアイデアを得たり、表面的なことを本質的に把握する力、物事の裏側にある真理を見ることが可能になります。
人にとって、本質性は強ければ良いと言うわけでもなく、心が本質世界に向かわないことで、地に足の付いた社会活動がしやすい場合もあるし、バランス良く世界を理解することで、社会の中でクリエイティヴな能力を発揮したりもします。
人の心の本質性が強いことと、社会的活躍は別のことと言えます。
むしろ、通常は本質的知識や能力がなくても、人間的能力があれば、社会では活躍できますから、本質世界と繋がってなくても構いませんが、性質的に自然と深く繋がってしまう人もいるのです。
通常、本質性の強い人は社会活動は控え目ですが、本質のさらにその上に突き抜けた人は、一体性と自我を自然とバランス良く併せ持っていて、何にも束縛されずに自由に生きます。
魂は肉体を通じて、物質世界を意識するし、心を通じて本質意識の世界にアクセスします。
人には、自我の強い表面的意識(表層意識などとも言われますが、人としての活動に大事な意識)もあれば、無の意識みたいな深い意識もあります。
そちらに向かうほど、意識できる形がなくなって行き、本質的になり、自我もなくなって行くので、自他の区別や、内とか外などの区別もなくなって行きます。
本質意識側から、肉体との関係を表現すれば、本質性の強い意識世界は、肉体の内にも外にもある世界と言えます。
意識には本質性の強弱がありますが、究極の本質は無です。
何もないとも言えるし、全ての源があるとも言えます。
この世の表面は様々に分別された個別の存在がありますが、この世の本質は誰でも持っていますから、人は本質的にはみんな繋がっているとも言えます。
宇宙は大きな1つの生命とも言えます。
本質性は、人間界(分別世界)では、一体性として表れます。
魂は自由です。本来、どこへ行こうと、何をしようと自由です。
地上では魂でも、本質性の強い世界では、別に魂じゃなくても良いのです。
ある程度、本質性の強い世界では、魂と言うよりも、なんらかの意識体として生きることも自由にできます。
そうするにしても、世界があれば、そこに分別はあり、自分ではない存在もいます。
もし、魂が自分一人で世界を作り出しても、意識する側、意識される側などの分別があります。
ゆえに、魂は本質世界であっても、調和的な愛がないと、自由に生きられません。
そのため、魂は愛を持ちたいのですが、本質世界は非物質性の世界なので、割と自由なので、そこで愛を持つのも、た易いのですが、魂にエゴの性質が残っていると、悪い心(攻撃的分別心)を持つことも自由にできるので、分別意識(自我)の強い魂は、本質世界での自由度が下がります。
つまり、エゴの強い魂は、本質世界の中でも、割と物質性の強い、自由の少ない世界でしか生きられません。
人間世界(物質世界)は、自由度が一番少ないので、そこでは、自我がどんなに攻撃的な分別心(悪い心)を持とうと、他の存在達の力のほうが大きいですから、一人の悪い心で世界全体が破壊されるようなことはありませんが、人間界より一体性の強い本質世界でそれをすると、その魂は、地獄のような世界で生きることになります。
ゆえに、自由度の少ない人間界(地球)は、エゴの強い魂には救いなのです。
なので、エゴの強い魂は、人間として生きようとします。
そこは、分別世界なので、自分一人の性質が悪くても、社会ルールがあるし、他者の愛があれば、その世界は、ある程度の秩序が保てます。
そこでは、愛があっても、相手のエゴが強いと届きませんから、愛があろうと、完全な自由は得られません。
良い人が一人いても、世界は大して良くならないし、悪い人が一人いても、世界は大して悪くなりません。
そこでは、愛というよりも、他者と戦って、自分のエゴを満たす生き方になります。
そういう人が社会的な力を得ますから、他の人もそれに追い付こうと、エゴを強めます。
しかし、それは本当の自由ではありませんし、苦労やストレスの多い人生になります。
そういう世界では、愛を持つ気になれない場合もありますが、魂にとっては、人としてうまく生きて行くというよりも、そういう社会の中でも大きな愛を持てるようにすることが、本来の目的なのです。
この物質世界の中で大きな愛を持てれば、それが魂の向上に繋がります。
魂にとっては、社会的立場は低くても良いし、自由の少ない厳しい立場のほうが良い場合もあるのです。
もちろん、そういう環境にダメージを受けて、魂が病んでしまえばマイナスですから、社会的自由や人間的な幸せを求めて良いのですが、厳しい環境の中でも愛を持てれば、魂にとっては大収穫なのです。
そういう魂が人としての肉体的人生を終えて、本質世界に向かうと、天国のような世界で生きられます。
本来、それが魂の目的です。
そこには、物質世界的な時間はありませんから、肉体感覚の時間で言えば、一瞬の世界なのですが、そこにいる意識体にとっては、永遠に等しいほどの時間があります。
それは、寝ている時に見る1分程の夢が、目覚めている時の感覚で言うと、何時間分もの出来事に思えることと似ています。
その天国のような世界は、物質性が薄いので、そこにいる魂(意識の主体)にとっては、自分の肉体があるか、なくなったかは関係ありません。
そして、自分が死んだか、生きているかも関係ありません。
肉体がなくても、意識としてそこに存在できるし、肉体があっても、心を通じて、その本質世界と繋がれます。
そのことを言葉で適切に説明するのは困難ですが、本質世界と、肉体との関係は、大体そんな感じになっています。
人は、エゴを満たす生き方をするのも自由だし、単に人として生きたいから、人になった魂も多いです。
それで良いなら良いのですが、エゴが強過ぎて、物事の本質性が見えていないと、なんだか良く分からないけど、生まれたから生きている、体験しているから体験しているという人生になります。
なぜ自分がいるのか、自分とは何なのか、この世界とは何なのか、そういう本質的なことが分からないので、とりあえず、エゴを満たすための人生になりやすいのです。
本質性が強く愛が大きければ、その分、世界も変わります。
魂であれ、人であれ誰もが自由を求めます。
大きな自由を得るためには、人として社会的自由や自分の夢に向かいながらも、魂の本来の目的を忘れてはいけません。
それは本質的な大きな愛を持つことです。
私は本質世界にいた大天使ですが、その愛を人に伝道する使命があり、人として生まれました。
本質性の強い世界にも、本質的な宇宙があり、星々もあるし、天使達の星もあります。
さらに本質性の強い世界には、創造主的な神様もいます。我々の創造力の源です。
本質世界には、霊界の神様のように人間的な性質を持つ神様もいますが、本質性の強い至高神は愛そのものです。この世の生命の源です。
誰もがその本質を持っているので、生きようとします。愛し合おうとします。
そのさらに本質性の強い世界に無があり、その無に全てがあります。
そこまで行くと、一体性と分別の区別もないので、無は人間には把握できないです。
人知を超えています。
しかし、それを表面的な形ある状態で、意識しているのが人の世です。
つまり、形ない無と、形ある有は、一体なのです。
本来、表面世界は、この世の根源(本質)でもあるのです。
魂が、究極の根源自体と一体化した場合、魂=この世全体になります。
魂としての自我は消えますが、その世界には本質と表面とその中間があり、その世界の中にはいくつもの個別の生命がありますから、そういう状態の自我を得ます。
本質性を極めると、完全な一体性を得ますが、そのことでまた大きな自我が生じるわけです。
誰も完全な無にはなれませんが、心にそういう性質を持つことはできます。
それが本来の意味の悟りです。
本質世界には、人間にも我々にも意識できない別の世界がありますが、それは関係ないので、そこまで絶対的な真理を求めるのは無理です。
人間にとってのこの世の真理があれば良いのです。
この世はある程度は、人間が理解できるように作られていますから、そこまでを理解すれば良いのです。
大天使は、天使の中でも本質性の強い天使です。大きな愛と本質的知識(真理)があります。
普段は、人の意識の中にいるので、肉体を持つ人として生まれることはありませんが、時々、自我を強めて、魂のようになり、人の心に入ります。
地上には、天使の魂を持つ人や、天使の意識と繋がった天使の心を持つ人がいます。
意識的なコンタクトだけでは、人々のエゴが強いと、ほとんど届かないので、地球には人としての天使もいたほうが都合が良いのです。
天使や神様がいるのなら、なぜ、人としてのキリストの死を救わなかったのかとか、なぜ、戦争を止めてくれなかったのかとか思うかもしれませんが、過剰に強くなった人間のエゴ(攻撃的分別心)は、物質世界では大変大きな力を持っているので、物質世界でその攻撃性に対抗するエゴを持つということが、我々の性質的にできないからです。
平和的な方法で、人間界の過剰な争いごとを緩和したり、できるだけ防ぐようにはしていますが、過剰な怒りや憎しみや恐怖心を持つエゴの強い人には届かない場合があるのです。
私達はあなたの悪い心を見通すこともできますが、それを持つのは人間の自由ですので、その自由を尊重し、そこには関わりません。
あなた達の良い面に関わることで、その人の心に愛が増え、悪い心は減っていきます。
人間として天使の魂を持つ者もいますから、そういう人達を通じても、平和を作っています。
悪と戦う人間的性質を持つ天使もいますが、本質意識の中の天使達は、限りなく平和な方法でしか愛と真理を伝えられませんから、ある程度の自我を持つ人に、それを人間的に解釈してもらって、分かりやすい形で、人に伝えてもらいます。
私には戦いができませんが、人間は平和のために戦うこともできます。
現在の人間界では、悪を正す場合に、相手以上の気持ちの強さがいりますが、私は平和的な解決を望みます。
悪は過剰なエゴです。それは人の自由です。
私達は、人間からその自由を奪うことはしません。
愛を与えることで、悪を正します。
愛さえあれば、誰にも愛されない人はいません。
どんなにダメな人でも、優しい愛があり心がきれいなら、愛してくれる人はいます。
それはみんな持っているはずです。