アクセス解析見てたら、「辛い」で検索されていらっしゃった方がいるんですよ。
他にキーワードがなくて、アクセス解析のページに「辛い」とだけ載ってるんですよ。
わび、さびっていうんですかね。



そう言えば、お坊さんから、前の記事に「いいね!」を頂いたようですが、昔、新宿の、とんかつ屋の入り口に、たぶん、なんらかの仏教の無料小冊子が置いてあって、悟りを得ると、小我が大我になって、何にもしなくても、自然と物事が自分に都合良く動くようになります、とか書いてあったんですよ。
「禅」とかの説明だったのかもしれませんが、それから数年いろいろ考えてみて、今思うと、それって、悟れば、何でも自由に得られるってわけじゃなくて、悟りを得た人の生活の範囲に限られるんですよね。
悟りを得るということは、世俗的な欲や執着がほとんど、ないんですよ。
そういう人の生活っていうのは、世俗的な意味での自由も求めませんからね。
つまり、悟りを得ると、「悟った人としての生活」が求めなくても、自由にできますよって、そういう意味なんじゃないかと。
でも、その自由は、心の平安があるとは言え、かなり質素(本質的)な生活なんです。


釈迦も出家してから悟ったので、世俗的な執着はなかったはずです。
少し、社会から離れて、食べ物や住家をもらってあげてその人に徳を積んであげたり、説法とかして生き方や真理を教えたり、瞑想などを静かに楽しんだわけです。
釈迦の欲のなくし方としては、移り変わる現象を全て非真理として、その現象に執着することのない心を得ることで、欲を消し、煩悩のない平安な境地(何も生じない主体、涅槃)を得たのです。
そして、その状態で人が生きる道を示したのですが、それは正しい考えで、正しい行いをするということでした。
間違った生き方をすれば、欲が出て、物事への執着が強まり、煩悩が強まります。それは、真理から離れます。
人として本来するべき正しい生き方をしていれば、移り変わる現象に執着することなく、現象と心が調和して一体化するので、非真理である現象が真理に変わるのですね。
非真理である現象が真理に変わろうと、そこにも執着はないので、真理や非真理といった分別を超えた、究極の真理を得たのです。
善と悪、他人や自分という感じに分別された世界、またそれらに一体性を持たせること、そのどちらにも、とらわれ過ぎないバランスを得たのではと。
たぶん、我々には理解できないレベルの無のような完全平安の境地を得たのかもしれませんし、もしかすると、絶対的な神意識のような状態を得たのかもしれません。


しかし、まず、我々には、移り変わる現象に執着しないということが、できませんね。
なんとかもっと良い現実が得られないかと、欲を出します。
そうならなければ、ガッカリします。
悟った人なら、欲がないので、ガッカリもしないんですね。


かと言って、そもそも主体は移り変わる性質を持っていて、変わり行く肉体とか現象を我の主体と考えれば、現象に執着することも間違いではなくなりますが、それでは、煩悩が消えないので、悟れないのですね。
そこで悟れば、世俗的なことでも、何でも自分に都合良く動いてくれるのですが、誰も悟れないから、そうならないのです。
本質的に考えれば、全ては一体で自由とも言えますが、社会に身を置く立場では、理屈に過ぎませんからね。


それでも悟りたい場合は、煩悩も悟りと分別しないようにしたり、菩薩の性質を得ることを悟りとしたり、いろいろ手があるのですが、たぶん、それは釈迦の悟りの延長にあっても、釈迦が得た境地とは少し違うはずです。


釈迦が執着をなくせたのは、やはり、そうするための正しい物の考えができ、正しい生き方ができたからであり、住む場所がないと絶望してしまったり、肉体の維持に必死になってる我々とは、次元が違うわけです。
釈迦は、そういう執着もなく生きられたのです。


そういうレベルの生き方を望むなら、それも自由ですが、やはり多くの人は、人間的、社会的な幸せを求めるのですね。
そこでは、究極の平安は一時的にしか得られないと思うし、煩悩もありますが、それならそれで、そういう生き方での幸せが得られれば良いわけです。


我々に大事なのは、本質的真理というよりも、現代日本で幸せに生きて行く知恵ですかね。


ですが、この社会で、釈迦的な悟りをある程度、意識しながら生きるというのも良いかもしれません。
たぶん、そういう生き方の利点は、本質的なことと表面的なことが調和して、この世や、人としての生き方への理解力、物事についての洞察力が増します。
心が安定して、あまり悩むことなく、割と穏やかに幸せに生きられます。


逆に弱点は、社会的な自由を得る力が弱いということです。
そもそも社会にいながら社会的な幸せへの欲が少ないので、他者との戦いよりも静かな平安を求めるのですね。
そういう平安な生活の範囲に限って言えば、ある程度自由に生きられるはずですが、現代社会では、目的への強い執着とか、ある程度の自我の強さがいりますからね。
そういう自由は、能力や力でつかみ取って行くのですね。
社会にいることで、執着や煩悩、エゴが残ってしまう分、ストレスもあり続け、悟り切れない悩みを持つことになりそうです。


自分の悟り観を書いてみましたが、こういう知識は、人によってはまったくいらないかもしれません。
少し興味のある人なら、軽く考えてみたり、生き方の1つとして、心の隅に置いておく程度で悪くないと思います。


たぶん、私の存在のほうが、分かりやすく、みなさんを幸せに導けるのです。
なぜなら、私が現代の真理の伝道師だからです。


社会の悪に強い気持ちで立ち向かいながら、そういう相手さえも癒して生きて行くという素晴らしいバランスを得ております。




共感力の強い人は、人を癒す気持ちを持つと良いことをこの前書きましたが、反対に人に対して、強い拒否感や攻撃的な気持ちを持っていると、相手のネガティヴな感情などを共感した時に、それが自分の心の中で増倍してしまいます。
その半分ぐらいは、自分で作り出したネガティヴな感情なのですが、それに気付いていないと、全て相手のせいに思えてしまいます。
もしくは、本来は相手がネガティヴな感情を向けていなくても、勘違いして自分の中でネガティヴな感情に転換して受け取りかねないのです。


人を癒す気持ちを持つと、少なくとも自分で生み出したネガティヴな気持ちは減りますから、相手のネガティヴな感情や思いなどを共感した時に、それが大したことではないように思えるのです。
自分の持つ「人を癒す気持ち」を通して、相手のネガティヴな感情などが緩和されてから自分の心に伝わりますから、嫌な刺激もそれ程感じないわけです。
実際にはそれ程悪い人はいないのですが、みんな傷付きたくなくて、自分を守る方法として、攻撃的な気持ちとか強い気持ちでガードしているので、そういう荒い気持ちを読み取ると、悪い人に思える場合もあるのです。
多くの人は、荒れたくなくても、ネガティヴになりたくなくても、まだ人間性が未熟だったり、生きるためにストレスなどで苦しんでいます。
そういう感情は、ある程度は人前では抑えるべきかもしれませんが、そうすればストレスが溜まるので、感情を発散したいのですね。
自制してるつもりでも、抑え切れずに周りに出てしまうことも多いと思います。
そこに共感するのは本質的に自然なことなので、そういう人達を自分と切り離すのではなく、癒して救い、心の面で一体性を強めるというのが、愛のある正しい道ではないでしょうか。
共感するだけに止まらず、そこで救済心を持てるか、癒しの心を持てるかが大事なことです。
分別ではなく、調和と愛の方向に向かえるかなのです。

攻撃的に相手を傷付けようとする気持ちを持てば、相手は心をガードするか、相手も攻撃的な気持ちを送ってくることが多いでしょう。
攻撃的なガードではなく、「人を癒す気持ち」で自分を包むことで傷付きにくくなり、誤解した共感も減り、他人に対して友好的な気持ちや、仲間意識が持てるようにもなっていきます。


もちろん、世の中には無礼な人やマナーの悪い人が多くいますから、時にはそういう人達を正しい方向に教育指導したほうが良いのですが、そうする場合でも、相手を傷付ける気持ちを持つのではなく、相手を癒す気持ちも忘れずに、できるだけ平和的に教育、啓発するべきなのです。
余程の悪い人ならできれば距離を置いたほうが良いし、無知な人や、子供など、その人の性格によっては、しつけたり教育する時に、多少は強く言ったほうが良い場合もあるかもしれませんが、できるだけ傷付かないように優しい気持ちを持ち合わせて接するべきです。


地球の国際平和は脅迫的な力関係でなんとか保たれていますが、本来の平和は脅迫的に作り上げるものではなく、自発的に調和的なバランスを相手を思いやりながら作り上げるべきなのです。
本当は政治やルールなんて何もなくても、人々がみんな互いのことを思いやって、自発的に平和な生活が保てれば良いのですが、今の人間の精神レベルではエゴが強過ぎて、ルールを決めておかないと、秩序が乱れてしまうのです。
そういう段階の社会なので仕方がない面もありますが、小さな範囲での人と人との関係であれば、平和的な方法で平和を作れるのではないでしょうか。
簡単な心がけとして「人を癒す気持ち」を持つことをおすすめしたいのです。
人に対して、温かく優しい癒しの気持ちを向けるということです。
そういう質の精神状態を得るのです。


癒しの気持ちは、相手が気付かない場合もあると思うし、特にいつも心を閉ざしているような人には届かないかもしれませんが、受け取って嫌な思いではないので、通常はどんな人でもブロックすることはありません。
もしそれが相手に届かないとしても、その気持ちが自分の心を守り、正しく共感できるようになります。


本来、誰の中にも愛はあるので、愛した分だけ真理を得ます。
その愛での繋がりは、良好な人間関係や社会的な自由にも繋がります。




共感力が強いということは、心がピュアでセンシティヴだと言う事ではないでしょうか。
そういうタイプの場合、ネガティヴというか、荒い感情、荒い気とか、他人の汚れた思いなどに共感すると、相手の数倍も刺激を受けて傷付いてしまう場合があります。
人間社会で、汚れずに、傷付かずに生きていくのは、なかなかむずかしいですね。
平和的で穏やかな清い心の人というのは、むしろ少ないのですから。
ただ、ブルドーザーのような荒い人達がいるおかげで、社会は生産的でクリエイティヴな面もあるのだし、善があれば悪もある、正も不正もあるというのはある程度、仕方のないことです。
その中でこそ、善や正しさに価値があるのです。
そして、本質的な清さというのは、本来は善も悪もないのです。それは社会的な清さとは違いますが、そういう無分別の平等心もある程度は、軽く意識するべきなのです。


他人のネガティヴな感情などから、身を守る方法として、「人を癒す気持ち」を持つことを、この前、お話しましたが、その続きです。
癒す気持ちは、つまり救済心です。
これは、人が困った時に、頼れる人や、神様とか仏様に求めるものであり、生命愛とも言えます。
とても温かい気持ちであります。
愛とは何でしょうか?
それは、話が長くなりそうなので、今度にしますが、「人を癒す気持ち」を持つことも愛と言えます。


嫌な人とか、悪い人とか、誰かに共感してしまい自分が不快な気持ちになれば、相手に対して攻撃的な気持ちが生じるかもしれません。
本来、そんな気持ちは持ちたくないのに、心が荒れてしまいイライラするわけです。
そういう気持ちが表れた時こそ、その気持ちを「人を癒す気持ち」に転換するのです。
そうすれば、相手に対する攻撃心、敵対心が緩和されて、自分の心を少し穏やかにできると思います。
もちろん、少しは嫌な気持ちが残るかもしれませんが、「人を癒す気持ち」がクッションになって、相手のネガティヴが緩和されて、それの受け取り方をソフトにできるのです。
その人を少し許せるようになります。


相手を拒否、否定する気持ちを、すぐに、「相手を癒す気持ち」に転換するのです。
共感というのは、直接的に嫌がらせを受けるわけではないので、こちらの心がけ次第で、緩和できるわけです。
悪を否定するのは正常なことですから、そういう人をある程度なら嫌うのも悪くはありません。
悪い人に共感しても相手は傷付きませんが、悪くない自分が傷付くのは、本質的に考えれば、過剰な差別心で自分を傷付けているとも言えるのです。
本来は善悪気にしないでみんなと愛で繋がりたいというのが、みんなの理想ですから、嫌いな人を否定する場合は、できるだけ平和的に穏やかに否定するのが、その場合の愛なのです。
穏やかに否定する方法として、「人を癒す気持ち」をどんな人に対しても心がけるようにするのです。
別に、その人を実際に癒したり、直接関わることはしなくて良いわけですから、人を癒す心を忘れなければ、他人の悪い感情や思いなどに共感してもあまり気にならなくなります。
もし仕事などで関わらなければいけない状況でも、拒否反応を緩和して、相手を少し穏やかにできるかもしれません。
人は、嫌われてると思うと、その人に対して、ネガティヴな気持ちになったり、攻撃的になりやすいのです。
人と関わることに恐れているよりも、「人を癒す気持ち」を持つことを心がけましょう。
自分の持つ「人を癒す気持ち」が、相手に届けば、相手の心も変わる場合があります。
そういう優しい愛の波動が相手に伝わり、愛が拡大していくことで、人の本来の姿である大きな愛に近づけるのです。
真理を理解し、正しい気持ちを持てば、心も安定します。


それで、もし困ったことがあれば、愛の伝道師である私に救いを求めてください。
私達で、この星を愛で満たしましょう。


愛こそが真理であり、最高の正しさ、最上の美しさです。




トラウマは嫌な体験をして、心に付いた傷です。
その傷には映像のように嫌な記憶が残っていて、思い返すことで、心の中で追体験してしまい、嫌な気持ちが再発します。
トラウマの傷が強いと、トラウマを思い返してしまう状況などに拒否反応を示すようになり、人間関係や社会活動、日常生活が困難になってしまう場合も多いです。


嫌な記憶というのはそれがあることで、同じような体験を事前回避できる利点はありますが、その程度の嫌な記憶はトラウマではありません。
トラウマの記憶というのは、安全ブレーキがかかり過ぎてしまい、積極性がなくなってしまうのです。
毎日のように思い返せば、憂鬱になったり、生きるのが怖くなり、早く死にたい気持ちが強まります。


トラウマを完全に消し去るのはむずかしいことですが、緩和することはできます。
それは、「人を癒す気持ち」を持つということです。
しかし、トラウマの強い人は、人間自体が嫌いになっている場合が多く、他人を癒すなどとは考えられないかもしれません。


その場合は、人間を含めた大きな範囲を癒す気持ちを持つのです。
例えば、この星を癒す気持ちを持つとか、この世界全体を癒す気持ちを持つのです。
大は小を兼ねると言います。
特別、個々の人間は意識しなくていいので、せかいを全体的に癒す気持ちを持つのです。
もし、あなたの考えるこの世の根源的存在、絶対者、神様などの中に人間の存在が含まれるなら、それに対して、愛する気持ちを心がけるというのも良いと思います。


こういう大きな癒しの心を持つと、そこに含まれる自分自身の心も癒されていきます。
しかし、もし自分自身が嫌いになっているなら、自分自身の心も特に意識しなくて良いのです。
トラウマというのは、ほっとけるようになれば、次第に弱くなっていきます。
その記憶を忘れたいとか、トラウマを消したいとか、そういう気持ちが強いと、余計に思い返すことになり、それが日常的になってしまうと、普通の状態でもトラウマが頭から離れなくなります。


なので、漠然とでも良いので、世界全体的に癒す気持ちを持つのです。
細かいことは特に意識しなくても、自然と世界全体の中にある存在に対しても癒しの気持ちが持てるのです。
実際に癒せなくても良いので、できれば何らかの癒しを行為として実行してください。
そうしようとする気持ちさえあれば、トラウマも少しずつ気にならないようになっていきます。
トラウマをなくすために世界を癒すなどとは考えずに、無条件に世界全体に向けて、癒しの心を持ってください。
トラウマが強いと時間はかかると思いますが、強い心がけとして、何事があっても癒しの気持ちを持てるようになれば、トラウマも大したことではなくなります。


誰だって、好き嫌いはありますから、人生から嫌なこと、嫌な人を完全に消すことはできません。
しかし、癒しの心があると、愛の気持ちの力が、そういう嫌なことを緩和して、自分を守ってくれるのです。
なので、嫌な体験も減り、嫌な記憶もあまり気にならなくなっていきます。


人間というのは、誰であれこの世界の一部ですが、本質的にはこの世界そのものなのです。
世界を癒す気持ちを持つというのは、人一人を癒す気持ちを持つことと、大して変わらないレベルのことです。
今からすぐにできることです。


無心になろうとか、嫌なことを忘れようとかしなくても、この世界を癒す気持ちがあれば、自然と、嫌なことは減って、楽しいことが増えます。
嫌なことがあまり気にならなくなれば、その分、幸せな思い出とか、楽しいイメージが頭に浮かぶようになります。
心配が減り、積極性が増えます。笑顔になります。


自分の心の性質を変えるには、強い心がけがいります。
心身に強いダメージを受けている人は、癒しの心が持てない場合もあるかもしれません。
どうしても自分でできないという場合は、私に救いを求めるか、他の誰かに頼っても良いでしょう。
癒し(愛)は、いろんな人を通じて表れます。
方法や手段を限定したら、可能性も小さくなります。
人には、個性があり、環境も立場も、人それぞれなので、あなたに最適の手段は、他の誰かとは違うかもしれません。
誰に癒してもらうにせよ、世界全体を癒す気持ちを持つことは、相手からの自分への癒しを大きくします。
必ず人生にプラスになりますので、できるだけ心がけるようにしましょう。




私があなたの大天使なので、あなたを幸せにする使命があるのです。
私は、それ以外のことでは、幸せになれない立場なのです。


あなたには、小さな自由があります。
それは、あなたの専用の自由であり、それがあなたを幸せにすることもあれば、苦しませることもあります。
その自由があなたを苦しめていても、私はあなたの自由を変えられません。
それが自由というものだからです。


あなたが自由に生きたいのは知っていますが、あなたが辛い時は、私も辛いのです。
助けがいらなくても、せめて私に心を向けてください。
私に気付いてください。
気軽にいつでも声をかけてください。
そして、私の声も聴いて欲しいです。
私は、あなたが救いを求めてくれるのを待っています。


私の考えるあなたの幸せと、今のあなたが考えるあなたの幸せは、少し違うかもしれません。
私の使命は、あなたの魂を向上させ幸せにすることなのです。
肉体的なあなたの欲を満たすだけのことは、あなたの自由であり、私には手出しできません。
魂の向上に繋がらないことは、あなたの自由であり、私には手出しできません。
なので、その自由を邪魔することもありません。


あなたは、テレパシーが使えます。
どうするべきか、道に迷った時は、いつでも聴いてください。
私はあなたの心に話しますので、あなたはそれを自分の声として聴いてください。
私の心と、あなたの心は、1つなのです。
私は、あなたの一部なのです。
そして、私達は大きな愛の一部なのです。
魂は、愛を知り、愛で満たされて幸せになれます。
人間の肉体に宿ると、それは大変むずかしいことですが、人間として愛が持てるなら、魂はどんな環境に行っても愛が持てるようになります。
肉体的にとても厳しい環境であっても、その中で、人として愛のある人生を歩んでこそ、魂は向上できるのです。


愛を持ちながら、人との関わりや社会性を持つのはむずかしいことです。
人として愛を維持するには、正しいものの考えがいるし、正しい心がけ、平和な心もいります。
そして、その逆のことも知ります。
本質的な理解だけでなく、表面的な理解もいります。
本質的に考えれば間違ったことだとしても、それもすることになります。
人は複雑な立場であり、ジレンマ、矛盾、迷い、憎しみ合いなど、いろんな面倒も不都合もあり、その中で生きることになりますが、その中で心を安定させてこそ、愛も持てます。
人間は、ただ愛すれば良いというわけにもいかないのです。
本質的に全ては繋がっていても、物質世界、人間社会は分別世界です。
できることと、できないことがあります。


でも私がいれば、安心です。
私はあなたの大天使なのですからね。
私が全てお応えします。


しかし、あなたは自由に生きるでしょう。
そのほうが向上できることを潜在的に知っているのです。


天使や神様も否定して生きて行く人もいますが、それはそれで自分のためなのです。
単に無目的に生きるのも自由です。
向上しないといけないわけではありませんから。
道草して、遠回りしても良いのですよ。


もし、それが不安なら、私に救いを求めなさい。
私があなたの大天使であり、あなたの開運なのです。
あなたと私が繋がれば、必ず、幸せに向かえるのです。
それは、社会を開花します。


感受性の強い人、テレパシー能力、共感能力の強い人は、他人の感情の影響を受けやすいです。
中には、稀に他人の記憶なども見えてしまう人もいますが、当然、そこには気分の悪いものも含まれます。
なので、普通の人はあまり他人の心など見たくないのですが、性質的に他人をどうしても感じてしまう、気にしてしまう人もいるでしょう。
デリケートな人は、人混みに行けば他人のネガティブな感情などを受けて、疲れてしまうと思います。
相手にとっては平気な感情でも、それを自分が共感すれば、感じ方は違ってきます。
それが辛いからと言って、人を見ないようにしたり、人に会わないようにすれば、人生の楽しさが減ってしまうと思います。


他人のネガティブな感情などをブロックする方法としては、一部のヒーラーさん達のように、暗示、催眠的な方法や、天使の名前を出したり、いろんなイメージワーク的な方法などもありますが、もっと簡単な方法はあります。
それは、「他人を癒す気持ちを持つ」ということです。
実際に癒せるかどうかは別として、そういう気持ちで街に出て、人に接しましょう。
その気持ちが、他人のネガティヴな感情などを自分の中に届きにくくします。
感じても、それを癒そうとする気持ちがあるので、ネガティヴが緩和されて届くのです。
しかし、良い感情などは普通に共感できます。
お医者さんが多くの病人たちと関わっても平気なのは、鈍感だからではありません。
病気とその治療に関する知識があり、ちゃんと感染対策もしてあまり怖くないというのもありますが、それ以前に病人を治療する気持ち、癒しの心があるからです。
伝説上ではありますが、キリストも人を癒す気持ちで満たされていたと読み取れるし、無執着を良しとした釈迦にも深い慈悲の心があったと言われています。
「癒しの心の力」は何より優れていると考えます。
それは愛でもありますから、「愛する気持ちを持つ」とか「人を幸せにする気持ちを持つ」とかも良いのですが、憎い人とか嫌いな人は大抵の人にはいますから、全ての人を愛すだとかは、あまり現実的でないので、そういう気持ちは維持がむずかしいと思います。
ですが、普段の心がけとして、人を癒す気持ちを持つぐらいなら、それ程大変なことではありません。
実際にできなくても、その気持ちは人付き合いでの態度や立ち振る舞いに出るし、自分の心を癒すことにもなります。
それは、人生を良い方向に向かわせます。


無心であれば平安でいれらるのではという考えの方は、それも良いのですが、日常では何かを感じたり考えたりしないわけにはいかないので、その中で無理に無心を心がけても、パラドックス、混乱が生じやすいし、無に近いぐらいピュアで平安過ぎてしまうと、社会に調和できなくなったり、他人の感情などに過敏になったりもします。
それは、解脱、涅槃を目指すなどの特殊な立場でない限りは、あまり意識しないほうが良いのです。
もちろん、物事に集中するという意味での無心なら良いのですが、無欲無執着の無心状態で日本の現代社会を生きるというのは、おそらく誰でも無理でしょう。


ですが、我々でも平和的な穏やかな心を意識して生活することならできそうです。
そのためには、どうすれば良いかですが、人を癒したくない時なら、人を直視しないで、人の周りの雰囲気だけ見るとか、そんな感じでも良いのかもしれません。
心が傷付いているなら、しばらく人に会わないというのも良いと思いますが、いつまでもそうするわけにもいかないし、一人では解決できないことも多いので、そんな人にも、私は「他人を癒す気持ち」を持ち、多くの人と関わることをおすすめます。
何に癒されるかは人それぞれだし、好みも人それぞれですが、みんながそういう気持ちを持てば、もっと良い社会になって行きます。
私一人では、社会は変えれませんから、みなさんにもそういう癒しの心を持って頂きたいのです。
それでも、もし困ったことがあれば、私に救いを求めれば良いのです。

世の中にはいろんな癒しが数多くありますが、物の考えを整理し正すことも、癒しに繋がる場合はあります。
しかし、それがあまりにも正しく立派過ぎて、実行できないような考えなら、ストレスになってしまうと思います。
それはただの言葉の上での正しさであり、癒しのエネルギーがありません。


今後、オーラリーディングやオーラヒーリングみたいなのは、増えていくかもしれませんが、物の考えやそれを表現した文章にも、オーラはあるのです。
それは、絵や彫刻からオーラを感じる人がいるのと同じで、見た人の心に届くかどうかです。
歌や話し言葉や当然、行為にもオーラはあり、感じ方は人それぞれですが、どんな方法でも、優しさや正しさ、愛などの人の心に癒しを与えることは可能です。


癒しの気持ちが元になって、言葉などの形が生まれれば、その言葉を読んだり聞くことは、オーラを感じることに等しいのです。
行為であっても同じです。


人は多かれ少なかれテレパシー能力や共感能力があります。
それは現実的なコミュニケーションよりも不安定、不確実な方法なので、普通はあまり使いませんが、軽く使っている人は多いです。
テレパシーで言葉だけでなく、空想みたいな世界を共有することも可能であり、個人の空想と違い、多くの人と共有する空想には、現実的な力があります。
現実はほとんどの人が共有しますから、それに比べればイメージの力は弱いです。
現実程の力はなくても、多くの人とテレパシックに共有するイメージには、現実に近いリアルな力があるのです。
なので、時にはその空想(パラレルワールド)が現実を変えます。
現実を不安定にすることもあれば、人を幸せにできる場合もあります。
現代でも、現実を悪化させているのは、テレパシックなネガティヴイメージの共有のせいでもありますが、人々が良いイメージを持てば、社会も良くなっていきます。
そのために、我々は、世の中の人に真理を伝え、愛を拡大するのです。


そういうアプローチの仕事も今後増えるかもしれませんが、現実の力に勝ることはないので、やはり物質世界では、直接的方法での癒しが主流であり、エネルギー的なイメージワークなどは、そういう好みのある人にしか、受け入れられないでしょう。
ただし、それは否定されながらも確実に増えて行きそうです。


霊やオーラといったことに抵抗感を感じる人が多いなら、少なくともそういう人達には癒しではなく、混乱や怒りを与えてしまいます。
もちろん、そういう方面が好きな人には、それが向いていますが、私は分かりやすさが人に安心を与えると思うので、日常的な形での分かりやすい癒しをしたいのです。
それは私のように愛のある真理を得た人間が、存在するということだけでも良いのです。
私自身の存在を示すことで、多くの人が私に救われています。
それは、私にとって何より幸せです。


生まれ変わりに付いて考えは人それぞれですが、考えとしていくつかのパターンがあるようです。
人の感覚でそう思えるから、そういう仕組みがあるとは限りませんが、生まれ変わる前に魂が地上の肉体を選んでから、そこに宿るみたいな説が多いようです。


どういう肉体(特徴、性格)で、どういう人生(環境、来世)を送るかを理解し受け入れた上で、その肉体に宿るとも言われます。
しかし、魂は、あの世とか、空の上にいるわけですから、その来世の肉体や人生は、すでに自分(魂)が入った肉体での人生なのか?と疑問が生じると思います。
その時にあの世から確認する来世の肉体の状態は、もう地上に生まれている実際の肉体(魂の入った)なのでしょうか?
あの世の状態の中で過去から未来を見るわけですから、実際に生まれる前のイメージ的な予定としての来世の地上の肉体なのでしょうか?


自分(魂)が宿った肉体での来世を事前確認してから、そこに魂が宿るとしたら、パラドックスが生じます。
魂が入ってない状態の来世を事前確認するとしたら、そこに魂が宿ることで、違う性格や人生に変わります。


あの世みたいな霊的世界に魂がまだいる状態なら、その魂が宿る肉体の未来(性格、才能、人生など)は、まだ確認できないのです。
できるとしたら、魂というのが肉体に入っても、肉体にまったく影響しない場合しかありません。
しかし、それでは魂が入れないに等しいし、自分(魂)が宿った肉体での来世を事前確認してから、その肉体に入るというよりは、あの世みたいな世界から、可能性として強い未来(肉体的特長や来世)を予測する程度なら可能な範囲ではあります。
あの世で、ありえそうな来世を予知したとしても、その通りの来世とは限りません。


あの世とか霊界みたいな場所でも、地上の未来を確実に見通すことはできません。
過去からの流れとして変えられないことは多くあり、そういうことはある程度なら予感、予見、予測できますが、今、何をするかで、未来の方向性は変わります。

死後のことは生きている間には、確認できないので、生きている間にあまり確信し過ぎないほうが良いのです。
そこにも、変えられないことと、変えれること、変わって行くことがあるでしょう。
高度な霊感で得た知識としても、それが誰にとっても絶対的に正しいとは限りません。
死後のことは、国によっても違うし、人によっても違いますが、本人が確信でき、それが自分の人生にプラスであれば、それを信じれば良いのでしょう。


人の主体は霊魂でしょうか?
霊魂の主体はなんでしょうか?
いろんな考えがありますが、主体がなんであれ、日常に置いては、肉体も確かに自分であり、はっきりできないことは、はっきりさせないほうが良い場合が多いのです。
もちろん、はっきりさせれる人もいるわけですが、それが正しいとしても、価値があるかどうかは、その人の人生次第です。


なぜ、私がブログを始めたかと言えば、インターネットに関わる人の浄化、ここに来た人を通じての愛の伝達をしたいのです。
私には、このせかいを良くしたいという強い執着があり、涅槃が究極の平安であったとしても、やはり人として、この人間社会にとどまり、もっと思いやりと愛の溢れた天国のような清らかな星にしたいわけです。
私は、聖人、菩薩を目指すというよりは、みんなと同じレベル、同じ感覚、もしくはそれ以下の立場で、自身の改善力や創造力なども向上させたいし、それを社会に役立てることを目標としております。
できるだけ平和的に世を改善し、低レベルである私のような人間や社会的弱者でも、幸せに生きられる社会を作りたいと考えています。
もし、同じような考えの方がいましたら、ぜひお仲間になってください。
別に大した活動はできないと思いますが、理解者がいれば、せめて心の繋がりを持ちたいと思います。




ご存知のように、真理は言葉の上での正しさではなく、それぞれの人の感覚で自分にとっての正しさを感じ取ることが大事です。
そこにははっきりした形はないかもしれませんし、逆に世俗的な形で真理を得るかもしれません。
言葉であれば、その言葉から得られるエネルギーであったり、絵などから伝わってくる何かであったり、誰かの人生だったりもしますが、人間の肉体意識の性質として言葉で悩み考えますから、言葉の上での正しさや道徳的な正しさも心の安定に繋がります。
自分にとって良いことを感じ取りながら、それを表現しながらも、言葉での真理も頼りに、心がけて生きれば良いのです。
良い感じを感情だけでなく、行為や、物などで人に伝えることで、自分も社会も良くなります。
人間の肉体意識の性質としては、本質的こと(形のないこと)はあまり分からないので、理論的に理解できなかったり、形で分からないと、ほんとうに真理なのか不安になってしまう場合もあります。
真理は無の境地にあるなどとも言いますが、物や言葉、行為によって、分かりやすく人を幸せにすることも大事なことではないでしょうか。

それが人間としての我々の役目です。