名古屋の中心部を南北に細長い台地が走っている。
その北端に作られたのが名古屋城だ。
熱田台地の段差を利用し、西国に向けて築かれた城と言っていいだろう。
城ができれば人も集まる。
武家屋敷は、主として城の南側、熱田台地の上に作られただろう。
丸の内から栄にかけてのエリアは今もきれいな碁盤の目の上に建物が並んでいる。
さて、城を作るにも街を作るにも、たくさんの木が要る。
その木はどのようにして運ばれたか。
徳川家康は豊臣秀吉子飼いの武将福島正則に命じ、運河を掘らせた。
例えば、木曽(長野県)の山で切られた木は、木曽川を下り、海を回って、運河を遡り名古屋城下まで持ってこられた。
熱田の港から北上し名古屋城下まで掘られた運河を堀川という。
それは熱田台地に沿うようにその隣を走っている。
武士が集まれば商人もやってくる。
下町というのは、いわば城の防衛ラインの外側にできたりしたのだろう。
武士たちは、坂を下り、運河つまりは防衛ラインである堀川を越えて下町に来ることもあっただろう。
そしてちょっとした用が済むとまた堀川を渡り、坂を登って段差の上に帰っていったのではないか。
たとえば地下鉄丸の内の駅で下り、堀川を渡って円頓寺商店街の方に向かうと、そんな様子が想像できる。
下町でちょっと遊んで、なんてこともあったかもしれない。
前にも書いたが、父方の祖父はお坊さんだった。
父方の家の方の人には、さらけ出した上で、ちょっと悟っているようなところがある。
たぶん神仏に仕えるようなことをしてきた家柄なのだろう。
これに対し母方の家はたぶん武士の家系だろうと思われる。
どことなく、武士は食わねど高楊枝(お腹が減っていても爪楊枝を高々とくわえていないといけない、武士の痩せ我慢やよく言えばその高潔さを表す言葉)のようなところがあるからだ。
父の家と母の家の感じのその段差を、熱田台地の段差に重ね合わせながらこれを書いている。
ところで、私事ではあるが、母方のおじいさんをキヨシさんという。
たしか字は喜義と書いたはずだ。
義を喜ぶ。
つまりは正しいことを喜ぶ、ちょっと正義感に燃えるジャーナリストのような名前だとも思う。
いつの頃であったか朝日新聞の記者をしていたことがあったらしい。
晩年は郷土史家をしていた。
書斎にたくさんの本が並んでいたことを覚えている。
専門は戦国時代だった。
まだ信長や秀吉が若い頃、尾張地方を舞台にしていた頃のことを調べていた。
家系の血がそうさせていたのかとも思う。
キヨシさんのところは大変だった。
子だくさんで、母は六人兄弟姉妹の末っ子だ。
そのうち男の子三人は全員が知的障がい者だった。
今でこそ障害への理解が進んだ社会になってきたが、当時は相当な偏見や差別もあったのだろうと思う。
僕にとって伯父さんたちは、大人なんだけど、子どものような可愛い人たちだった。
近所で迷子になったりするのだけど、またあっけらかんと話しかけてきたりする。
ところが、ちょっとおバカに見える伯父さんが法事の席では誰よりも背筋を伸ばし、微動だにしなかったりするのだ。
子供心にも、そのことをいつも不思議に感じていた。
また母によれば、伯父の一人は、時折切れ味鋭いことを言って周りをびっくりさせるという。
生まれ変わりの歴史からすればいろいろあったのかもしれない。
武士で相手方を滅ぼすこともあっただろう。
その規模が相当で、今その責めを負っているのかもしれないし、人を殺めてきたことを後悔し、もうそういうことが絶対できない立場を自ら選んで生まれてきたのかもしれない。
さて、これは、今朝(2024/6/23)の朝日新聞の天声人語からだ。
「自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」。
日本の兵隊が中国で行った残虐な行為が、裏返ってガマにいた人々の恐怖心につながり、自決を促していた
沖縄戦の悲劇のことを書いている。
人にしたことは自分に返ってくる。
いいことも悪いことも。
沖縄には行ったことはないが、本土と沖縄との間にはきっと段差があるのだろう。
恐怖心を煽りたいのではないが、自分たちでつけたその段差が自分にどう返ってくるのかについてはちょっと考えておきたいと思う。
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