陽のあたる坂道を昇る その前に
また何処かで 会えるといいな
イノセントワールド
(Mr.Children「innocent world」より)
最後の坂を登ればもう間もなくだ。
積んできた新聞を配り終える。
そう長い坂ではない。
多少急ではあるが登り終えると、目線はマンションの3階くらいの高さになるので、その段差は6メートルかそこらといったところだろう。
名古屋を東西に分けて考えると、東は山地に近づくのでやや土地が高く、西は土地が低い。
分かりやすく段差がついているのが熱田台地だ。
名古屋の中心部を南北に細長い台地が走っている。
この南端に置かれているのが熱田神宮で、もう少し北上すると、金山駅がこの台地の上に乗っている。
さらに北上し、この台地の北端に城を築いたのが、徳川家康だった。
豊橋から見ても岡崎から見ても名古屋の方角は、だいたい北西である。
東海道を矢印に見立てても、北側と西側に切り立った台地を利用して築かれたこの城はあきらかに西国に向けられて作られている。
時代的には関ヶ原の戦いの終わった後くらいだろう。
大阪城にはまだ豊臣秀吉の遺児、秀頼がいた。
話は変わる。
私事であるが、大学受験では大阪の関西大学に受かり、東京の法政大学に落ちた。
勉強に力をかけてきた英語の出来は両方まずまずといった感じだったので、差がついたとしたら、日本史ではなかったか。
ありがちな話であるが、古代から現代の方へ順に勉強していくので、時間的な制約で現代がどうしても手薄になる。
東京ではその手薄になったところが多く出題された印象があった。
さて対立を煽りたいのでは決してないのだが、わかりやすく言えば、西の方には、
(日本が治まってきたのは、京都の天皇と公家と寺社があればこそ。
東の方に暴れる連中がいただけ)
という感じがあり。
東の方には、
(武士こそが歴史を作った。
公家なんて和歌を詠んで蹴鞠してるだけ)
という感じがあるのではないか。
徳川家康は鎌倉の源氏を意識して征夷大将軍になったであろうし、幕府を開いた江戸が現代の首都東京の前身となっている。
徳川家康は死後、東照大権現と呼ばれることになる。
これが朝廷からおくられた名前だとしたら、読んで字のごとく、東を照らす神様のような人、という意味合いではないかと思う。
家康のことは神君として認めるけど、担当は東の方だよね、ということだ。
さて、東とはどこからを言うのだろう?
そんなことを考えて、思い浮かんだのが、毎朝原付バイクで駆け上がるあの坂のことだった。
さて、名古屋城は天下普請の城である。
今でいう公共事業ということであるが、税金が投入されたわけではなく、技術と労力を持ち寄って工事が行われた。
家康が関ヶ原の戦いに勝ち、江戸に幕府を開いた後のことだろう。
その仕事は主に西国大名に振り当てられたらしい。
その中には、加藤清正、福島正則、黒田長政なんかの名前も見える。
豊臣秀吉子飼いの武将たちだ。
秀吉は一代での成り上がりで、家臣団を持っていなかった。
正室ねねとの間に子供ができなかったこともあり、親類筋などから引っ張ってきては可愛がったのだろう。
ねねは、人の心理を見抜く天才とも言える秀吉とコンビを組んだ人である。
家康の器量については早くから見抜いていただろうと想像している。
加藤清正、福島正則、黒田長政が秀吉死後の関ヶ原の戦いで家康についたのは、石田三成との不仲のこともあるが、ねねの影響もあったのではないかと想像している。
関ヶ原の戦いの後はその働きが認められ、領地が大きくなったりしている。
しかし、家康からすれば、まだ大阪城に秀頼がいるのに、豊臣家臣を太らせるのは危険な行為でもあったに違いない。
名古屋城の天下普請は西国大名たちを痩せさせる意味合いも含まれていただろう。
名古屋城はシュッとしたお城ではない。
デーンと構えている。
なんでこんなところにこんな大きなものが建っているんだろう?というくらいにデカい。
それは家康の(いざという時は、ここで食い止める!)という意志の表れであり、(刃向かっても無駄だ!)と相手方をあきらめさせるような誇示の表れのような気もしている。
加藤清正や福島正則にとっては、生まれ育った故郷に天下普請で立派な城を建てる、その仕事が自分に回ってきたことは誇らしくもあったのであったのではないか。
西国に領地をもらったのは島津や毛利を抑えるためでもあっただろう。
ただ作っているその城が、親代わりだったかつての主君の城にも向けられていることは複雑な思いだったのではないか。
以上、東と西のせめぎ合うところ、名古屋からお届けした。