たまに、たくさん食べても太らない人がいるでしょう。


反対に、少し食べても太ってしまう人もいる。


いくら食べても充分に受け取ったと感じていなければ、体がそれを素直に表現しているのかもしれませんし。


たとえ少しでも(食べすぎた)と思っていれば、体はそう反応するのかもしれません。


そのように、見えている世界は見えていない世界の投影のようにも思うのです。


話は変わります。


豊臣秀吉は亡くなる前に、自らの身を水滴に例えました。


水は太陽の熱で海や陸から蒸気となって空にのぼります。


それは雲になり雨として降ってきたり、気温の差で露として現れたりもします。


水滴は集まって川となり、または地下を流れたりしてまた海に戻ります。


死んでからどうなるということはわからないのですけれども、見えている世界にヒントがあると思っています。


本体を魂とするなら、魂の旅は、水の循環に例えられるのではないか。


大元から旅に出され、いろんな経験をし、中身を充実させ、器を大きくして、また大元に還る。


そう考えると偉人や器量の大きい人というのは、祭り上げるよりも、親しみと共に自分の内側をインスパイア(触発)してくれる存在してくれる存在として捉えた方がいいのではないかと思っているのです。


仮に大元をアンパンマンとするなら、ちぎられた部分の大きいのが偉人や器量の大きい人で。


たとえはかない一部としても、実は自分自身がアンパンマンであることを思い出させてくれる人なのではないか。


そして、何のためにちぎられて旅に出されたか、をです。



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